チャーリー横山の「神仙道宝塚」、無為自然の道(タオ)を歩んでください。

無為自然の道(タオ)「神仙道宝塚」
ボーダー
抱朴子/淮南子
抱朴子(葛洪)
抱朴子(葛洪)

『抱朴子』という書物は東晋の葛洪(二八三〜三六三)によりを著されました。 葛洪の字(あざな)は稚川(ちせん)、号は抱朴子(ほうぼくし)といいます。 栄利を望まず、神仙道を修行し、晩年は羅浮山に入り錬丹と著述に専念し、神仙道を極めようとした自らの経験と知識をこの『抱朴子』にまとめ上げたのです。 すなわち『抱朴子』は仙道を目指す私たちにとって最高の参考テキストであることに間違いはありません。 『抱朴子』には、さまざまな丹薬の処方について具体的に書かれてあり、これらの丹薬を完成させて服用すれば、修行だけではおよばない不老長寿の境地にたどり着くことができるとしています。また一方で、凡人でも修行を重ねることによって仙人になれると励ましてくれています。 また何といっても老子の思想を強く受け継いでおり、日々の善行により寿命を増やすことができ、仙人になることもできるとする「功過思想」が仙道のひとつという観点から説かれています。そして、この「功過思想」が一般民衆が自らの幸福追求のために善い行為を行う動機となりました。

葛洪の先祖は後漢の光武帝が王朝を建てる際に功があり、葛家はそれ以来名門の家柄となりました。 祖父系は呉の高官で、学問を好み、経国の才がありました。 父悌もやはり呉の高官を務めましたが、高徳の士としての評判が高く、人格的に優れた人物であったといいます。

葛洪は、二八三年に悌の三男として生まれましたが。早くに父親が亡くなったために家は貧しく、毎日薪を切って売り、その代金で紙や筆を買い、田畑でたく柴の火を燈として勉強したとあります。 また紙がなくなると、一度書いた紙に反復して写したので、他の人には何が書いてあるかさえ分からないという有様であったそうです。 これらの記述からは、彼の家が経済的に困窮した様子がうかがえます。 しかし大淵忍爾氏によれば、それほど豊かでない清廉な官僚が早くに亡くなってその家庭が困窮するというケースは、その当時決して少なくなかったらしく、葛家の場合も全くの一農民に転落するほどでもなく、ある一定水準の社会的地位と経済的水準を有していたということであります。

葛洪は特定の師につくことはありませんでしたが、十六歳から『孝経』『論語』『易経』『詩経』などの儒書をはじめ、史書や百家、短い雑文に至るまで、様々な書物を博覧したといいます。大淵氏によると、これは葛洪に特異なことではなく魏晋貴族の一般的傾向であったらしいです。一方緯書、天文、暦数、術数関係の書には興味が湧かず、途中でやめてしまったという。葛洪はこのころから神仙思想にも興味をもちはじめ、鄭隠に師事しました。 鄭隠の師である葛玄と葛洪の祖父は、いとこ同士であり、よって、洪が若くして神仙思想に興味をもったのも、その家庭環境の影響であると考えられています。

後におこった張昌の乱で、洪は義軍をおこして戦ったところ、そこでの功が認められて伏波将軍に任じられましたが、彼はそれを辞退しました。 それは彼が次のような人生観を持っていたためでした。


富や権力は得難いうえ、すぐに逃げ去ってしまう
また、自分の性格では官僚としての地位を得るだけでも難しく
そのうえ神仙道を修めるとなればなおさら大変である


そこで、これからは神仙道のみを極めようと考えたのでした。 彼はその後、世の中にまだ多く未見の書物があることを知り、それらを求めて旅に出る。大淵氏によれば、仙道修行も目的のひとつであったといいます。初め彼は洛陽を目指していましたが、事情があって広州に留まることになり、この広州滞在中、彼は多くの道士に会い知識を養いました。 二十七歳の時、葛洪は広州を離れて故郷に戻り、本格的に著述活動を行うようになりました。 こうして『抱朴子』が三一七年に完成しました。 その年に東晋の元帝が即位し、葛洪は前功によって関内候に任命され、しばらくの間は役人生活を送りましたが、これが彼の本意でなかったであろうことは、大淵氏の指摘の通りであります。 しかし晩年になると、丹薬をつくって長生きをするために、家族とともに再び故郷を離れ広州の羅浮山にこもって丹薬を練りました。 その後、葛洪の崇拝者のひとりであるケ嶽が彼を訪ねていったところ、葛洪は座ったまま眠るように死んでいたといいます。 顔色は生きていた時のままで体も柔らかく、納棺して持ち上げると非常に軽かったので、尸解仙になったのだと噂されたということです。

葛洪は、生まれつき体が弱く、非常に内向的な性格であったため社交的なことを好まず、容姿や世間体には全くの無頓着であったとのことです。 しかし、内心では細やかな気遣いができる人であったらしく、困っている人があれば、それと分からないように手を差し伸べ、自分が施しを受けたときには、それと分からないように恩に報いるようにしました。 そして、決して自らの知識をひけらかしたりしませんでした。 世間の人たちが好む人物批評は争いごとの原因であると言って、自らしようとはせず、また彼は、賄賂や強奪によって不当な利益を得、上に媚びて下を苦しめる人々を憎み、そのような人々との交流を拒みました。 このようなことから、彼は温厚で思慮深く素朴な人柄であったが、強い正義感を持った徳のある人物であったことがわかります。

『抱朴子』は葛洪が十数年かけて書き上げたもので内篇二十篇と外篇五十篇に分けられ、そのうち外篇は儒教的な教えを、内篇は神仙術を中心に説いています。 『抱朴子』内篇では仙人について詳しく記述されていています。 そもそも仙人の歴史は古く、戦国時代に華北地方の方士たちによって語られたのがその始まりであるとするのが通説です。 現存最古の神仙に関する記述である『史記』封禅書によると、斉の威王・宣王や燕の昭王のころから、しばしば人をやって海に入らせ、蓬莱・方丈・瀛州の三神山を探させるということが始まったらしく、この三神山は伝書によると渤海の中にあって、そこには仙人が住んでおり不死の薬もあるらしいのですが、人間が行こうとすると風が船をはばんで、どうしても行くことができなかったといいます。

葛洪は多くの書物から得た、或いは自らの足で集めた神仙に関する情報を駆使して『抱朴子』を著しましたが、そこには金丹を中心に服薬・行気・房中など様々な方法が記されています。 『抱朴子』における功過思想も、実はこれらと同様に仙人になる方法のひとつに利用されてきました。

『抱朴子』の功過思想は対俗篇と微子篇にみることができますが、それらの記述をもとに、基本的な仕組みを以下にまとめてみます。


天地には過ちを司る神がいて、人が悪事を働けばその人の寿命を減らす
悪さの程度によって減らす数は異なり
そうして寿命が減ってくると心配事が増えたり病気になったりする
ついに寿命が尽きると人は死んでしまう
しかし、悪事は善事によって埋め合わせをすることができるとする
このことは既に『太平経』にあるので、『抱朴子』のみにみられるものではないが
『抱朴子』においてはその計算方法が非常に複雑である
一一九九善も一悪ですべてもとに戻ってしまう
心の中で思っただけでも罪になる
悪事をしなくても自分の善行を言い触らしたり
施しに対して報酬を求めたりするような場合は
善行に入らないとする等曖昧な部分が多く、はっきりとした規則性はまだみられない
だが悪事を慎んで善行に励めば、必ず寿命を増やすことができ
仙人になることも可能であるという



そして微子篇には善悪それぞれの「行為」が具体的に記されています。

■ 善行
善行を積み手柄を立て、物に慈悲深くなければならない。
わが身をつねって人の痛さを知り、昆虫にも憐れみをかけよ。
人の幸運を喜び、人の苦労を哀れめ。
人の急場を助け、人の貧窮を救え。
手は生き物を傷つけてはならぬ。
口は災難を招くようなことを言うな。
人が得をしたのを見れば自分が得したように思い、人が損をすれば自分が損したように思え。
偉ぶるな。
自慢するな。
自分よりすぐれたものを嫉妬するな。
うわべだけへつらって陰で相手を傷つけるようなことをするな。

■ 悪行
善人を憎み、殺生を好み、口先はきれいでも腹は真っ黒。
表と裏で言うことが違い、まっすぐなものをねじまげる。
下々を虐げ、お上を欺く。
主人に叛き、恩を受けても感謝もしない。
法律を悪用して賄賂を受け、悪人を野放しにし、正直者を罪に陥れる。
公の務めは投げ出して私腹を肥やし、無実のものに刑罰を加える。
人の家を破産させ、その宝物を没収する。
人の命をとり、その地位を奪う。賢者を侮辱したり、降参人を死刑にしたり。仙人を悪口し、仙道修行者を傷つける。
弾丸で飛鳥を射落とし、孕んだ獣の腹を裂いて胎児を取り出し、戯れに鳥の卵をたたき破る。
春・夏に野山に火をつけて狩をし、祟りなどあるものかと神霊を罵る。
人に悪事を教唆し、善行を蔽い隠す。
人を危険に陥れることで心安らぎ、人から盗むことで大手柄をした気になる。
人のめでたい事をぶちこわし、人の愛する対象を奪い取る。
人の骨肉を離間し、人を辱めて勝った気になりたがる。
良質の貨幣を借りておいて悪質の貨幣で返す。
堤防を切り火をつけるなど、術でもって人を害する。
弱い者を脅し、悪い品を良い品に換え、無理に取り立てて、切り取り強盗同様にして富を積む。
不公平で、淫らで邪ま、孤児を馬鹿にし寡婦をいたぶる。
落し物を懐中に入れたり施し物をだましとったり、人を詐欺にかけたり。
好んで人の秘密をしゃべり、人のあらさがしをする。
天神地 を引き合いに出して他人を呪い、自分だけが正しいと主張する。
借りたものを返さず、交換する約束だったのに代償を払わない。
貪欲で飽きることがなく、忠告してくれる人を憎み拒む。
お上の命令に従わず、師匠を尊敬しない。
人がよく働いているのを嘲笑い、人の作物をいため、人の器物を壊し、人の暮らしを苦しくさせる。
汚物をこっそり人に飲ませたり食わせたり。
秤の目、枡目をごまかし、反物の幅や長さをつめ、にせものを本物にまぜて不正の利得をし、或いは人をだまして品物を取り上げる。
井戸をとびこえ竈をまたぎ、晦に歌ったり、朔日に泣いたり。

仙人には「天仙・地仙・尸解仙」などの種類がありますが、これらの善行の数によって希望する仙人になれるかどうかが決まるとされています。


淮南子
淮南子

『淮南子(えなんじ)』は『淮南鴻烈』ともいい、前漢の武帝・淮南王劉安が蘇非・李尚・伍被らの学者を集めて編纂させた10部21篇から成る思想書です。 道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて治乱興亡や古代中国人の宇宙観、逸事が体系的に記述され、一般的には雑家の書に分類されておりますが、荘子の道家思想を基本としながら老子思想との共通性を見出して老荘思想としてまとめ上げ、儒家法家の考えも取り込んで時代に合わせようとしたものです。

『淮南子』には、人がどのように生きるのか、生きるべき道としての修身が説明されています。 『淮南子』の人間の修身論では、人間と自然世界との関わりを重視します。 その修身論では、老子・荘子の教説と同義で、「人は人間社会の中で天然の自然の生き方を目指すべきである」と考えるのです。 いわゆる「無為自然」です。 そのため、人の修身の根拠として、自然を大切に考え、善と悪とについて考えます。 自然こそが善であり、そして自然に反すれば反するほど悪であると捉えるため、人間の完全な善の状態を自然と一体となることによって達成するという考え方なのです。

では、どうしてそういう考え方になるのでしょうか?

それは、人が悪になる原因は、気持ちが外に向かい欲望を抱くためであるため、自分の外にあるものを欲しがる気持ちを抑え、欲望を抑えることで、人本来の善なる存在で居続けることが出来ると考えているためです。 ようするに自分が本来持っているものに満足できれば、それで既に善なる状態は達成しているとし、つまり「今のありのままの自分を大切にしなさい」ということなのです。 人間社会の中で生きながら、人間社会の中にある様々な欲望の対象を追求せずに、自然状態の本来の自分を守り続ける姿勢を保つこと、これが、『淮南子』の骨格となっているのです。

淮南子には陰陽五行説や医学についても書かれています。 東洋医学は陰陽五行説に基づいて説明されていますので、陰陽五行説は重要な理論です。 西洋医学との決定的な違いは医学に対するこの理論の違いです。 西洋医学は生物学など科学を根拠として様々な病気の説明をしていますが、東洋医学は陰陽五行説を根拠として病気の説明をしています。

西洋医学が発展したのは近代ですが、東洋医学は三千年くらい前から脈々と受け継がれ発展していきました。 科学のない時代に医学的根拠を陰陽五行説などに求めるのは自然な帰結であったと言えます。 むしろ陰陽五行説に基づき広大な中医学の体系を作っていますので注目すべき点だと思います。

淮南子は陰陽五行学説を提唱していますが、まず、陰陽による万物の発生と変化について論述し、水、火、月、日を陰陽に例えています。 《天文訓》には、「積陽の熱気は火を起こし、火気の精者は日と成す。積陰の寒気は水となし、水気の精者は月と成す」とあり、また、「日者、陽の主也。月者、陰の宗也」とあります。 これは人々がよく見る水や火、日や月が陰陽の属性であることの説明で、その形象と生動の比喩であり、抽象的な陰陽学の説明を容易にしています。

五行の基本的な規則に関しては、例えば、東方は木に属し、北方は水に属する。水は木を生み、木は火を生み、火は土を生み、土は金を生む。木は土に勝り、水は火に勝り、水は火に勝り、火は金に勝り、金は木に勝り、故に春に生まれ秋に死す、などです。 この五行学の内容は《黄帝内経》と同じですので、淮南子が書かれた当時は陰陽五行学説は多方面に浸透していたことを伺わせています。

淮南子の中には方角及び人体の特徴及び勇怯、智愚、寿夭などを五行に当てはめて書いてあります。 例えば、東方は「その人総じて小頭、隆鼻大口で鳶肩つま先歩き、鼻孔は目に通じ、筋と気は同じで蒼色主肝、大きくなり早熟であるが長寿ではない」などです。 これにより、人に対しても五行に基づいて様々な分析がなされます。

また、淮南子の中には「気」という文字は204ヶ所使われており、当時の書物の中では圧倒的多いことがわかります。

では、最後に神仙道で最も大切となる「気」と「天神合一」について書かれた【巻三 天文訓】をご紹介しておきましょう。


【 巻三 天文訓 】

最初に虚空があり、虚空のうちに宇宙が生まれる
その宇宙のうちに、気が生ずる
気には重さがあり、軽くて透明なものは、うすくたなびいて天となり
重く濁ったものは沈み固まって地となる
軽くて透明な気は集まりやすいが
重くて濁っている気は固まるのが遅い
だからまず天ができあがり、地はそのあとにできる
天の気は集まって陽気となり、地の気は集まって陰気となる
この陰陽二気のうち、純粋なものは春夏秋冬の四季を構成し
そこからあふれでた気は万物を構成する
陽気だけが結合すると火となり、その火気の純粋なものは太陽となる
陰気ばかりが結合すると水となり、その水気の純粋なものは月となる
さらに太陽と月からあふれでた気は、集まって星となる
このように気は天地日月星辰山川の自然を構成する要素であり
同時に人間を構成しているものも同じ気である
天の気はそのまま人の気に連続する
自然と人間は同じ気で結ばれており、天人合一の原理にほかならない





  このページのトップへ /神仙道宝塚