チャーリー横山の「神仙道宝塚」、無為自然の道(タオ)を歩んでください。

無為自然の道(タオ)「神仙道宝塚」
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道(タオ)

道(タオ)は中国語で Dao と発音されます。そしてこのは日本に入ってきてから Dao が訛って Dou と読まれるようになりました。 茶道や柔道、お天道などの「」として使われ、日本人にとってはなじみ深いものとなりました。

道(タオ)とは、宇宙や大自然のもっとも奥にあって、すべてのものを生み出していくエネルギーであり、私たちが暮らす森や、川や、山や大地、そして、地球や宇宙のすべてに、あまねく満ちています。 すなわち道(タオ)とは、古代中国の賢人達が長い年月をかけて自然を観察し、星の運行と人間の行動や健康、運命を観察して発見した宇宙に貫徹している原理原則のことで、とうてい人間の手が届かない大きな大きな宇宙の法則、宇宙の真理なのです。 この道(タオ)については全81章からなる「老子道徳経」の中で説かれていますが、全81章とはいえわずか5000字程度です。 そのわずか5000字の中に宇宙の真理が説かれています。

古代中国の賢人達は人間の体も、宇宙の原則である道(タオ)に支配された小宇宙と考えました。 そしてその小宇宙の生命をつかさどり動かしているエネルギーを「」と名づけました。 ですから私達人間も体内の小宇宙が調和した状態で、自然にが流れているのがもっとも健康で元気な状態であり、宇宙に生かされる一つの小さな存在として道(タオ))に添って生かされることが最も健康的で幸せな生き方であると気づきました。    

また、道(タオ)に支配されているのは人間の体だけではなく、すべての生命も、またこの世に存在するすべての物質は道(タオ)の宇宙の原理原則に添って存在しているのだということを、古代中国の賢人達は気づきました。

では「道(タオ)に添った生き方」とはどういう生き方なのでしょうか?

その答えは「無為自然」という四文字で老子道徳経の中で説かれています。 無為自然とは、何もしないのではなく精一杯の努力をし、あとは天地自然の宇宙の原理や変化をそのまま受け入れることだと説かれています。 私たちこの小さな命を無為自然の宇宙に委ねて生きる。 そして、この宇宙に命をいただいているということを、もっと大切に日々を楽しく精一杯過ごすこと。 そして、心と体を共に自然なありのままの状態に戻してあげることにより、 初めて人間は明るく楽しく囚われのない無為自然な生き方に到達することができるのだと説いています。

もう少し「無為自然」について深く掘り下げてみましょう。

自然」は「自ずから然り」ということですが、これすなわち、他からの影響を一切受けることなく、大昔からそれ自体がそのようであるさまを意味しています。 「無為」は「なんら作為をしないこと」という意味になります。 つまり「無為自然」は「なんら作為をせず、あるがままの状態」をいいます。 では「無為」と「道(タオ)」の関係を老子道徳経の第三十七章で見てみましょう。


道は常に無為にして、而も為さざる無し
(道はいつでも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している)


作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している」とは、一体どういう状態なのでしょうか?

天地を例にして考えてみますと、天や地は意思をもたないから常に「無為」の状態といえますが、無為でありながらも、その働きは常にこの世界全体に行きわたっています。 季節はめぐり、太陽は大地を照らし、雲は雨を降らし、大地の上では植物や虫や動物がそれらの恩恵を受けて育っていく。 つまり「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを為している」ということになるわけです。

老子のいう「無為自然」とは、意図や意思、主観をすべて捨て去って、道(天地自然の働き)に身を任せて生きていくことなのです。

そして道(タオ))に添って生かされるための最も善い生き方が「上善如水」だと老子道徳経の第八章に書かれています。


上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず、衆人の悪む所に処る
故に道に幾し。居には地が善く、心には淵が善く、与には仁が善く、言には信が善く
正には治が善く、事には能が善く、動には時が善し。それ唯だ争わず、故に尤め無し


は限りなく透明に近く、流れに逆らわず、人の嫌がる低い所に身を置き、分け隔てなく皆に恩恵を与え続けていくが決して見返りを求めない・・・だからは永遠に絶えることなく道(タオ)に生かされているのでしょう。

本物の仙道とは、水のように善く生きることなのだと私は思います。


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