チャーリー横山の「神仙道宝塚」、無為自然の道(タオ)を歩んでください。

無為自然の道(タオ)「神仙道宝塚」
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老子道徳経

第一章 天地之始


道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。


これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。これら万物の二つの姿はそれぞれ名前は違えど、同じ一つの根源から生じている。その根源を「玄(深遠なる神秘}」と私は名づけたが、その玄のさらに玄、神秘を生み出すさらなる神秘からこの世の全ては生み出されている。


第二章 美之爲美


天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。


世の人々は皆美しいものを美しいと感じるが、これは醜い事なのだ。同様に善い事を善いと思うが、これは善くない事なのだ。何故ならば有と無、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、これらは全て相対的な概念で、音と声も互いに調和し、前と後もお互いがあってはじめて存在できるからだ。だから「道」を知った聖人は人為的にこれらを区別せず、言葉にできない教えを実行する。この世の出来事をいちいち説明せず、何かを生み出しても自分の物とせず、何かを成してもそれに頼らず、成功してもそこに留まらない。そうやってこだわりを捨てるからこそ、それらが離れる事は無いのだ。


第三章 聖人之治


不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不爲盗。不見可欲、使民心不亂。是以聖人治、虚其心、實其腹、弱其志、強其骨。常使民無知無欲、使夫知者不敢爲也。爲無爲、則無不治。


人の上に立つ人間が有能な人間を尊ぶ事がなければ、人々が互いに競争する事もなくなるだろう。貴重な品々を有難がらなければ、盗みを働く者もいなくなるだろう。欲望を刺激する様な情報を絶てば、人々の心は落ち着くだろう。だから「道」を知った聖人の政治というのは、人々の頭を空っぽにして、そのお腹を一杯に満たす。人々の欲望を弱くして、その肉体を強くする。人々を無知無欲にして、小賢しい知恵者などにたぶらかされない様にするのだ。そうやって余計な事をしない無為の政治を行えば、世の中が治まらないなどという事は無い。


第四章 象帝之先


道冲、而用之或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似或存。吾不知誰之子。象帝之先。


「道」は空っぽの器の様にそれだけでは何の役にも立たないように見えるが、それを満たそうとしても満ちる事がないくらいに遠大なものである。その懐の深さは万物を生み出す根源の深さでもある。それは鋭くとがった刃先を丸くし、もつれた糸を解きほぐし、光の輝きを和らげ、何でもない塵と一つになる。まるで水を湛えた器の様に静かにそこにある。その「道」はどこから生まれたのか解らないが、万物を司る天帝のさらに祖先であるようだ。


第五章 天地不仁


天地不仁、以萬物爲芻狗。聖人不仁、以百姓爲芻狗。天地之間、其猶蠹籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言數窮。不如守中。


天地自然の働きに仁愛の心は無い、万物を使い捨てにしている。「道」を知った聖人の政治も仁愛の心は表さない、民衆に対して素知らぬ顔をしている。天地自然の働きは空気を送り出す鞴(ふいご)の様なもので、空っぽの中から尽きることなく万物が生み出され、動けば動くほどに溢れ出てくる。仁愛をいくら言葉で言い表そうとも実行できずに終わるのならば、余計な事は言わない方が良い。


第六章 玄牝之門


谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。


万物を生み出す谷間の神は、とめどなく生み出して死ぬ事は無い。これを私は「玄牝(げんぴん) - 神秘なる母性」と呼ぶ。この玄牝は天地万物を生み出す門である。その存在はぼんやりとはっきりとしないようでありながら、その働きは尽きる事は無い。


第七章 天長地久


天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私邪、故能成其私。


天は永遠であり、地は久遠である。天地がその様に永久であるのは、自ら永久であろうとする意志が無いからだ。だから「道」を知った聖人はわが身を後回しにしながら周囲に推されてその身は人の前に立ち、わが身を人の外側に置きながら周囲に推されてその身は人の中心にある。これはその人が無私無欲であるからではないだろうか。無私無欲であるからこそ、自分をつらぬいていけるのだ。


第八章 上善若水


上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。


最上の善とはたとえば水の様なものである。水は万物に恵みを与えながら万物と争わず、自然と低い場所に集まる。その有り様は「道」に近いものだ。住居は地面の上が善く、心は奥深いのが善く、人付き合いは情け深いのが善く、言葉には信義があるのが善く、政治は治まるのが善く、事業は能率が高いのが善く、行動は時節に適っているのが善い。水の様に争わないでおれば、間違いなど起こらないものだ。


第九章 功遂身退


持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉滿堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功遂身退、天之道。


いつまでも器を満たし続けようとするのは止めたほうが良い。刃先を鋭く尖らせればそれだけ長持ちしなくなる。金銀財宝を蔵に満たせば満たすほど、それらを守るのが困難になる。富や名声を手に入れて傲慢になれば、かえって不名誉を残す事になる。自らのやるべき事をやり遂げたならば、さっさと引退するのが天の道というものだ。


第十章 長而不宰


載營魄抱一、能無離乎。專氣致柔、能嬰児乎。滌除玄覽、能無疵乎。愛民治國、能無以智乎。天門開闔、能爲雌乎。明白四達、能無以爲乎。生之畜之、生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。


迷える肉体を落ち着けて唯一の「道」を守って、そこから離れずにいられるだろうか。精神を集中して身体を柔軟にして、赤子のようになれるだろうか。心の鏡を洗い清めて、少しの落ち度もないようにできるだろうか。人々を愛し国を治めて、それで人に知られずにおられようか。天上の門から万物が生み出される時に、雌のように受身でいられるだろうか。何もかもはっきりと解っていながら、何もせずにいられるだろうか。ものを生み出し育てながら自分の物とせず、何かを成し遂げてもそれに頼らず、人の上に立っても取り仕切ったりしない。これらは「玄徳 - 神秘なる徳」と言う。


第十一章 无之爲用


三十輻共一轂。當其無、有車之用。挺埴以爲器。當其無、有器之用。鑿戸窓以爲室。當其無、有室之用。故有之以爲利、無之以爲用。


車輪というものは三十本の輻(や)が真ん中の轂(こしき)に集まって出来ている。その轂に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用を為すのだ。器を作るときには粘土をこねて作る。その器に何もない空間があってこそ器としての用を為すのだ。戸や窓をくりぬいて家は出来ている。その家の何もない空間こそが家としての用を為しているのだ。だから何かが「有る」という事で利益が得られるのは、「無い」という事が影でその効用を発揮しているからなのだ。


第十二章


五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。馳騁畋獵、令人心發狂。難得之貨、令人行妨。是以聖人、爲腹不爲目。故去彼取此。


色とりどりの色彩は人の目をくらませる。幾重にも音を重ねた音楽は人の耳を聞こえなくさせる。味わい豊かな食事は人の味覚を鈍くする。乗馬や狩猟といった娯楽は人の心を狂わせる。手に入り難い貴重な品々は人の行動を誤らせる。だからこそ「道」を知った聖人はお腹いっぱい食べる事を除いて快楽を追い求めない。感覚から得られる快楽を求めず、心の内面の充足を求めるのだ。


第十三章 龍辱両忘


寵辱若驚。貴大患若身。何謂寵辱若驚。寵爲上、辱爲下。得之若驚、失之若驚。是謂寵辱若驚。何謂貴大患若身。吾所以有大患者、爲吾有身。及吾無身、吾有何患。故貴以身爲天下、若可托天下。愛以身爲天下、若可寄天下。


尊敬されたり、侮辱されたりという事に人々は一喜一憂して暮らしている。それらから得られる利害を自分の身体の事のように心配するからだ。どうして尊敬や侮辱に一喜一憂するのかと言えば、尊敬を良いものと考え、侮辱を悪いものと考えて、褒められれば喜び、叱られれば悲しむからだ。そうして人々は他人の評価に一喜一憂している。それではどうして他人の評価からもたらされる利害を自分の身体のように心配するのか。そもそも利害によって幸福になったり不幸になったりするのは自分の身体があるからなのに、自分の身体が無くなってしまったりしたら、一体何を心配する必要があるだろうか。だから天下の事よりも自分の身体を考える人にこそ天下を任せる事ができるし、天下の事よりも自分の身体をいたわる人にこそ天下を預ける事ができるのだ。


第十四章 无状之状


視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。此三者不可致詰、故混而爲一。其上不t、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是爲惚恍。迎之不見其首、隨之不見其後。執古之道、以御今之有、能知古始。是謂道紀。


目をこらして視ようとしても見えないもの、これを「夷」と呼ぶ。耳を澄まして聴こうとしても聞こえないもの、これを「希」と呼ぶ。手探りで取ろうとしても得られないもの、これを「微」と呼ぶ。これら三つのものは元々一つのもので、我々には捉える事の出来ないものなのだ。その上に行っても明るくならず、その下に行っても暗くならない。おぼろげでとらえどころも無いので名づける事も出来ず、結局は無に帰ってゆく。これを「すがたの無い姿」「かたちの無い形」または「おぼろげなもの」と呼ぶことにしよう。こちらに向かって来るのを迎えても顔は見えず、後から追いかけても後姿は見えない。この古くからの「道」を通して眼に見える今を見れば、物事の起源を知る事ができる。これを「道の始まり」と呼ぶ。


第十五章 善爲士者


古之善爲道者、微妙玄通、深不可識。夫唯不可識、故強爲之容。與兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、儼兮其若客、渙兮若冰之將釋、敦兮其若樸、曠兮其若谷、混兮其若濁。孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。保此道者、不欲盈。夫唯欲不盈、故能蔽而新成。


古くからの「道」を充分に修めた人は、その微妙な働きによって奥深い所に通じており、奥深さゆえにその有り様は到底理解する事は出来ない。理解出来ない事ではあるが、あえてそれを説明して見よう。おずおずと冬の川を渡る様に慎重であり、びくびくと周囲を警戒する様に用心深くあり、きりっと威儀を正した客の様に厳粛であり、解けてゆく氷の様に素直であり、切り出したばかりの丸太の様に純朴であり、深い谷間の様に寛容であり、濁った水の様に曖昧である。この濁った水を静かに止めて上澄みから清水を得られる者は誰であろうか?またそれを再び動かして生命を生み出す事が出来る者は誰であろうか?「道」に沿った生き方をする人は、一杯まで満たされる事を望まない。だからこそ彼の器はたとえ壊れても何度でも再生するのだ。


第十六章 没身不殆


致虚極、守靜篤。萬物並作、吾以觀復。夫物芸芸、各復歸其根。歸根曰靜、是謂復命。復命曰常、知常曰明、不知常、妄作凶。知常容。容乃公。公乃王。王乃天。天乃道。道乃久。沒身不殆。


心を空っぽにして静けさを保っていると、世の万物がどんどん生み出されてまた元の姿へ戻っていく様が見える。この世の全てはどんどん生み出されては、そうやって根源へ帰っていくものだ。万物はこうして静寂へ還る。これを「本来の姿に戻る」と言う、そしてこれは「万物の法則」とも言う。この法則を理解する事は「明らかなる知恵」と言う。この知恵が無いと何をしても出鱈目になってしまう。この法則を理解すれば、どんな事も包容出来る。全てを包容出来れば、全てを公平に扱う事が出来る。物事を公平に扱う事が出来れば、それは「王者の徳」と呼ばれる。王者の徳はすなわち「天命」である。天命とはすなわち「道」である。「道」を得る事は永遠を得る事であり、そうなれば生涯を通じて迷う事は無いだろう。


第十七章 功成事遂


太上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮之。信不足、焉有不信。悠兮其貴言、功成事遂、百姓皆謂我自然。


最も理想的な君主と言うのは、民衆はただその存在を知るだけで何をしているのか解らないくらいで良いのだ。次に良い君主は民衆がその功績を讃える様な君主で、その次は法と罰を厳しくして民衆が恐れる様な君主で、その次は民衆から愚かだと侮られる様な君主である。君主が誠実さを欠いて余計な事をすると民衆からの信頼を失うものだ。だから理想的な君主は悠然としてめったに口を挟まず、人々が力を併せて事業を為す様にさせて、民衆が「我々の力で国が良くなった」と自らを誇れる様にするのだ。


第十八章 道亡有義


大道廢、有仁義。智惠出、有大僞。六親不和、有孝慈。國家昏亂、有忠臣。


人間本来の自然な生き方である「道」が失われてしまったからこそ、人々が仁義などと言い出すのだ。小賢しい知恵を振りかざす者がいるからこそ、人々は偽り合う様になったのだ。家族が仲良く暮らしていないからこそ、孝行とか慈愛とかが重んじられるのだ。国がひどく乱れて安定しないからこそ、忠義の臣などがもてはやされるのだ。


第十九章 絶聖弃智


絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以爲文不足、故令有所屬。見素抱樸、少私寡欲。


美徳を断ち切って知恵を捨てれば、人々の利益は百倍にもなるだろう。仁愛を断ち切って正義の心を捨てれば、人々は本来の真心に立ち返るだろう。小手先の技術を断ち切って便利な道具を捨てれば、盗賊など居なくなるだろう。この様な事を言葉で理解するのは難しいだろうから、手本とすべき例を挙げよう。生まれ持った心を素直に表して切り出したばかりの丸太の様な純朴さを内に秘めよ、利己心を少なくして欲望を少なくせよ。


第二十章 独異于人


絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如嬰兒之未孩。乗乗兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、漂兮若無止。衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。


学ぶことを止めたなら、迷うこともないだろう。「はい」と答えるのと「うん」と答えるのにどれほどの違いがあるだろうか?人の言う善と悪にはどれほどの違いがあるのだろうか?人の嫌がる様な事はしてはならないが、どこまでも厳しく律していたら際限が無いではないか。世の人々はみんな笑顔でご馳走を食べている様に見える。まるで春の日に高台から世界を見ているかの様だ。しかし私といえば一人きりで動くそぶりも見せず、笑う事を知らない赤ん坊の様だ。ぐったりと疲れて果てて身の置き所も無いかの様だ。世の人々はみな有り余る何かを持ち合わせているのに、私と言えば何もかも失ってしまったかの様だ。私はそういう愚か者の心を持っていて、ぼんやりと何が確かなのか解らずにいるのだ。世の人々はきらきらと眩いばかりだが、私だけは一人暗がりに居る様だ。世の人々は賢く聡明であるのに、私だけは一人悶々としている。ゆらゆらと大海原に漂い、風の様にどこへ行くかも解らない。世の人々はそれぞれ世の為に役立っているのに、私だけが一人じっとして何の役にも立たずにいる。私だけが人とは違っていて、大いなる「母」に養われる事を大切に守っているのだ。


第二十一章 惟道是从


孔徳之容、唯道是從。道之爲物、惟恍惟惚。恍兮惚兮、其中有物。恍兮惚兮、其中有像。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。自今及古、其名不去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉、以此。


真の徳を備えた人の在り様はひたすらに「道」に従うばかりである。「道」というものは、ひたすらにぼんやりとして捉えどころが無い。ぼんやりとして捉えどころが無いのだが、確かに何かが存在している。ぼんやりとして捉えどころが無いのだが、確かに何かが見えるのだ。奥深くてほの暗くて、その中に何か精気が存在する。その精気はひたすらに純粋で、その純粋さは最も確かなものである。はるか大昔から今に至るまで、その「道」は存在し万物の始原である。何故私が「道」が万物の始原であるか解るかと言えば、以上の様な理由からである。


第二十二章 聖人抱一


曲則全、枉則直、窪則盈、敝則新。少則得、多則惑。是以聖人抱一、爲天下式。不自見故明、不自是故彰。不自伐故有功、不自矜故長。夫唯不爭、故天下莫能與之爭。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而歸之。


曲がりくねった木の様に役立たずであれば、生をまっとうできる。 尺とり虫の様に身を曲げておればこそ伸びる事も出来る。くぼ地の様にへこんでおれば、いろいろな物を溜める事が出来る。古着の様にボロボロであればこそ、新しくなる事が出来る。多くの物を持ち多くの事を求めると、悩み事には際限が無い。だからこそ聖人はたった一つの「道」を守り、世の模範となっているのだ。自ら目立とうとはしないからこそ誰もが気づく、自らを肯定しないからこそ誰もが認める。自らを自慢する事が無いからこそ誰もが称える、自らを自慢する事が無いからこそ長く「道」を保てるのだ。そもそも人と争って何かを求めようとしないので、決して誰にも敗れる事が無い。昔の人が言う「曲がりくねった木の様に役立たずであれば、生をまっとうできる。」とは真実である。そうしてこそ生をまっとうし、根源に帰る事が出来るのだ。


第二十三章 道亦笑得


希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。


聞き取れない程のかすかなささやきこそ、言葉の自然な在り方である。吹き荒れる風は半日も続かないし、土砂降りの雨も一日中は続かない。そうしているのは自然そのものである。自然すら長く続けられない様な言葉の発し方を、人間が長く続けられる筈が無い。だから「道」に沿った生き方をする者は「道」と一つになろうとし、徳に沿った生き方をする者は徳と一つになろうとし、仁や礼を求めて徳を失った者は、それらと一つになろうとする。「道」を求める者を「道」の方でも求め、徳を求める者を徳の方でも求め、仁や礼を求める者もそれらから求められる。いずれにしても言葉に誠実さが足りないと、人からの信頼を失うものだ。


第二十四章 自是不彰


跂者不立、跨者不行。自見者不明、自是者不彰。自伐者無功、自矜者不長。其於道也、曰餘食贅行。物或惡之。故有道者不處。


背伸びをしようとつま先立ちをしている者は長く立っていられない。早く歩こうと大股で歩く者は長く歩いていられない。自分が目立とうとする者は誰からも注目されないし、自分の意見を押し付ける様な者は人から認められない。自分の功績を自慢する様な者は人から称えられないし、この様な者は長続きしない。こういう人間の行為を「道」の観点から言うと「余計な食べ物、余計な振る舞い」と言うのである。誰もがお腹一杯食べた後にさらに食べたいと思わない様に、「道」を知った人間はそんな事はしないものだ。


第二十五章 道法自然


有物混成、先天地生。寂兮寞兮、獨立不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名、字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。人法地、地法天、天法道、道法自然。


なにやら漠然と混じり合った物があって、それは天地より先に生まれ出た。音も無く静かで形も無く、何ものにも頼らず存在し何の変化も無く、どこまでも広がって行きとどまるところが無い。それは万物を生み出す母の様なものだ。私はそれを何と呼んで良いのか解らないので、仮に「道」と名づけた。あえて別の言い方をするなら「大」と呼べるだろう。「大」であればどこまでも広がって行く、どこまでも広がって行けば果てしなく遠くまで到達し、果てしなく遠くまで到達すればまた元の位置に帰ってくる。つまり「道」がこの「大」の性質を持つように、天も「大」であり、地も「大」であり、王もまた「大」である。この世界にはこれら四つの「大」が存在し、人を統べる王はその一つであらねばならないのだ。人は地を模範とし、地は天を模範とし、天は「道」を模範とし、「道」はそのありのままの姿のままでいる。


第二十六章 静爲躁君


重爲輕根、靜爲躁君。是以君子、終日行、不離輜重。雖有榮觀、燕處超然。奈何萬乘之主、而以身輕天下。輕則失本、躁則失君。


重くどっしりした物は、軽く浮ついた物の支えとなる根本である。静かに落ち着いた者は、騒がしく動き回る者を抑える主である。だから立派な大臣は国中を馬車で行きかっても重い荷馬車から離れず、きらびやかな宮殿を歩き回っても家では静かに落ち着いた暮らしをしている。ましてや大国の王たる者がその身を天下より軽んじて良いものか。軽く浮ついていれば支えを失い、騒がしく動き回れば主としての立場を失う。


第二十七章 善行无痕


善行無轍迹。善言無瑕謫。善數不用籌策。善閉無關鍵、而不可開。善結無繩約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。


すぐれた進み方というものは車の轍や足跡を残さない。すぐれた言葉というものには少しのキズもない。すぐれた計算というのは算盤を使ったりしない。すぐれた戸締りというのは鍵やカンヌキをかけずにいても開けることが出来ない。すぐれた結び目というのは縄も紐も使っていないのに解くことが出来ない。この様な物事の見方をする「道」を知った聖人は人の美点を見出すのが上手いので、役立たずと言われて見捨てられる人が居なくなる。またどんな物でも上手く活用するので、用無しだという理由で棄てられる物が無くなる。これを「明らかな智に従う」という。たとえば善人は善人では無い者の手本であり、善人では無い者は善人の反省材料である。手本を尊敬せず反省材料を愛さないというのでは、多少の知恵があっても迷うことになるだろう。こういうのを「奥深い真理」と言う。


第二十八章 知雄守雌


知其雄、守其雌、爲天下谿。爲天下谿、常徳不離、復歸於嬰兒。知其白、守其黒、爲天下式。爲天下式、常徳不誤、復歸於無極。知其榮、守其辱、爲天下谷。爲天下谷、常徳乃足、復歸於樸。樸散、則爲器。聖人用之、則爲官長。故大制不割。


男性的な美点を知って女性的な立場を保つ様にすれば、全てを受け入れる谷間になれる。全てを受け入れる谷間になれば、真実の徳から離れる事なく赤ん坊の様な安らぎを得られるだろう。秩序の整った善性を知って混沌とした悪性をも包容すれば、万物の模範となれる。万物の模範となれば、真実の徳に反することなく善も悪も超えた境地に至る事が出来るだろう。輝かしい栄光を知ってドン底の屈辱を忘れずにいれば、全てが集まる谷川になれる。全てが集まる谷川になれば、真実の徳で心が満ち溢れて切り出したばかりの丸太の様な純朴さに帰る事が出来るだろう。その丸太を細かく切り分ければ、様々な用途に用いる事が出来る。「道」を知った聖人はその様な人材を上手く使って人々の上に立たせる。だがそれら人の上に立つ人々のさらに上に立つ様な人となると、丸太の様な純朴さを保ったままの人が良いのだ。


第二十九章 聖人无爲


將欲取天下而爲之、吾見其不得已。天下神器、不可爲也、不可執也。爲者敗之、執者失之。凡物或行或随、或歔或吹、或強或羸、或培或骸。是以聖人去甚、去奢、去泰。


世界を我が物にしようと人々は争っているが、私には無駄な努力をしている様にしか見えない。世界とは人間の力の及ばぬものであって、人間が世界をどうにかしたり、また自分の物にしたりは出来ないものだ。人間が世界をどうにかしようとすれば却って世界を駄目にしてしまうし、たとえ自分の物にしたとしてもすぐに逃げてしまうものだ。この世の仕組みというのは、誰かが先に進めば誰かが後からついて行き、誰かがゆっくりしていれば誰かが急ぎ、誰かが強ければ誰かが弱く、誰かが作れば誰かが壊す。だからこそ「道」を知った聖人は極端な事を避け、贅沢を避け、傲慢な心を避けるのだ。


第三十章 以道佐主


以道佐人主者、不以兵強天下。其事好還。師之所處、荊棘生焉、大軍之後、必有凶年。善者果而已。不以取強。果而勿矜、果而勿伐、果而勿驕、果而不得已。是謂果而勿強。物壯則老。是謂不道、不道早已。


「道」に基づいて君主を補佐する者は、武力をもって天下の人々をおびやかしたりはしない。人々に無理強いをすれば、いつか自分にその報いがあるものだ。軍隊が通った後の農地は荒れ果てるので、大軍が通った土地は必ず凶作になってしまう。よく「道」を弁えた人はたとえ戦争をする事になっても目的を果たしたらそこで止める、勝ちに乗じてさらに戦争をする事はしない。勝利しても尊大にならず、勝利しても自慢せず、勝利しても驕らずに、やむを得ず戦っただけだと言う。これを「目的を果たしたら、それ以上の無理強いをしない」と言う。物事は勢いがあればそれだけ衰えるのも早いものだ。これを「道を弁えない行為」と言うが、「道」を弁えていないと早々に滅びが訪れる。


第三十一章 有道不処


夫兵者不祥之器、物或惡之、故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器。不得已而用之、恬淡爲上。勝而不美。而美之者、是樂殺人。夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣。吉事尚左、凶事尚右。偏將軍居左、上將軍居右。言以喪禮處之。殺人之衆、以悲哀泣之、戰勝、以喪禮處之。


軍隊というものは不吉な道具であり、多くの人がこれを嫌うものだ。だから「道」を知った人間は軍隊には近寄ろうとはしない。人の上に立つ人々は、通常は左の席を上座とするのに軍隊では右の席を上座にする。軍隊は不吉な道具であるので、人の上に立つ様な人々が本来使うものではないのだ。やむを得ない理由で使わねばならない時には、あっさり使って長く使わない事だ。勝利を善い事だとしてはいけない。勝利を善い事だとする人間は人殺しを楽しむ人間だ。そんな人間が天下を得られる筈が無い。一般に吉事では左を上座にするが凶事では右を上座にする。軍隊でも将軍は右に座り、副将軍が左に座る。つまり葬儀の作法に従っている訳だ。戦いによって多くの命が失われたらたとえ勝利を収めたとしても、葬儀の作法に従って悲しみの心で涙を流すべきである。


第三十二章 知止不殆


道常無名樸。雖小、天下莫能臣也。侯王若能守之、萬物將自賓。天地相合、以降甘露、民莫之令、而自均。始制有名。名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆。譬道之在天下、猶川谷之於江海。


「道」とは名の無い切り出したばかりの丸太の様なものだ。この丸太はたとえ小さな物でも思い通りに使いこなせる者などいない。人の上に立つ君主がこの事を弁えていれば、この世の全てが喜んで従うだろう。そして天地が豊かになりその恩恵は人民の上に慈愛の雨を降らせて、わざわざ命令などしなくても人々は統一される。丸太を切り分けて道具を作れば名前を持った物となる。名前がつくと他の物との区別が生じてそれが行き着くと差別となる。だから物事の区別は程ほどにしなければならない。程ほどにしておけば危険が生じる心配が無い。この様な「道」の在り方は例えるなら大きな海が数々の川の流れを集めながら最も低い位置に存在しているかの様である。


第三十三章 知人者智


知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。


他人を理解する事は普通の知恵のはたらきであるが、自分自身を理解する事はさらに優れた明らかな知恵のはたらきである。他人に勝つには力が必要だが、自分自身に勝つには本当の強さが必要だ。満足する事を知っている人間が本当に豊かな人間で、努力を続ける人間はそれだけで既に目的を果たしている。自分本来のあり方を忘れないのが長続きをするコツである。死にとらわれず、「道」に沿ってありのままの自分を受け入れる事が本当の長生きである。


第三十四章 不自爲大


大道汎兮、其可左右。萬物恃之而生而不辭。功成而不名有。愛養萬物、而不爲主。常無欲、可名於小。萬物歸焉、而不爲主、可名於大。是以聖人、終不自大、故能成其大。


偉大なる「道」は水がどこまでも広がって行く様に、限りない恩恵を等しく万物にもたらす。万物はその恩恵によって生じるのだが、「道」はその事を自慢したりはしない。万物を慈しんで育てながら、それらを支配したりはしない。常に無欲なので、そのはたらきは小さく見えるかも知れないが、万物を受け入れながら支配をしないというあり様は、「偉大なもの」と言えるだろう。これらの事をよく理解している聖人も、自分から偉大な人間になろうとしないからこそ、「偉大なもの」でいられるのだ。


第三十五章 執道笑往


執大象、天下往。往而不害、安平太。樂與餌、過客止。道之出言、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。


大いなる「道」の形の無い形をしっかり把握している者には、世界のあらゆるものが集まってくる。集まってくるが混乱は起こらず、安らかで平穏でゆったりとしたままである。美しい音楽と美味しい食べ物には旅人でさえ足を止める程の魅力があるが、「道」を言葉で聞く事は淡白で味気無いので皆通り過ぎてしまう。この様に「道」は見ようとしてもよく見えず、聞こうとしてもよく聞こえないものだが、人生において用いればそのはたらきには際限が無いものだ。


第三十六章 欲歙固張


將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。


何かを縮小させようと思うならば、まずそれをいっぱいに拡大させると良い。何かを弱めようと思うならば、まずそれを強くさせると良い。何かを衰退させようと思うならば、まずそれを繁栄させると良い。何かを奪おうと思うならば、まず何かを与えると良い。このような事をわずかに見える明知と呼ぶ。柔よく剛を制すというのはこの事である。魚は水底にいてこそ安全なのだ。この様な国を治めるのに役立つ事柄は簡単に人に明かすべきではない。


第三十七章 道恒无爲


道常無爲、而無不爲。侯王若能守之、萬物將自化。化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。無名之樸、夫亦將無欲。不欲以靜、天下將自定。


「道」は自分からとくに何かをする訳では無いが、「道」によって成し遂げられない事は無い。人の上に立つ君主がこの事を弁えていれば、全てのものが自分から成長しようとするだろう。成長する過程で自分だけ飛びぬけようとするものがあれば、私は名も無い切り出したばかりの丸太の様な素朴さをもってその心を鎮めよう。丸太の様な素朴な心であれば、無駄な欲望を持つ事も無い。皆が無駄な欲望を捨て去り、心が静かであれば、世の中は自然と安定するだろう。


第三十八章 上コ不コ


上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲、而無以爲。下徳爲之、而有以爲。上仁爲之、而無以爲。上義爲之、而有以爲。上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扱之。故失道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。


徳が充分に備わっている人間は、徳そのものを意識する事がないので徳が離れる事は無い。徳の少ない人間は、徳を失うまいとするあまりに徳が離れていってしまう。徳が充分に備わった人間は無為を保ってことさらに何かをしようとはしない。徳の少ない人間は立派な人間になりたくて善い事をしようとする。例えば仁を重んじる人間は、何か善い事をしようとする。義を重んじる人間は、善い事をしながら自分も褒めてもらおうとする。礼を重んじる人間は、自分がしている善い事を他人にも無理やりやらせようとする。つまり最初に「道」があって、その後に人としての徳があり、徳が失われて仁があり、仁が失われて義があり、義を失った人間が辿りつくのが礼なのだ。 とくに礼などというものは、人々から真心や信義が失われた後に作られたものであって、これこそが社会を乱すもとなのだ。 仁や義や礼といったものを知識という形で教え込もうとすれば、「道」からはずれた愚か者を生み出すだけだ。だから本当に立派な人間というのは、手厚い真心を大事にして薄情な知識を捨てる。物事の実を大事にして見栄えのよい花を選んだりはしない。聞こえが良いだけの仁義礼といったものを捨てて「道」を選ぶのだ。


第三十九章 下爲高基


昔之得一者、天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞。其致之一也。天無以清、將恐裂。地無以寧、將恐廢。神無以靈、將恐歇。谷無以盈、將恐竭。萬物無以生、將恐滅。侯王無以貞、將恐蹶。故貴以賤爲本、以下爲基。是以侯王自謂孤寡不轂、此非以賤爲本耶、非乎。故致數譽無譽。不欲翡翠如玉、珞珞如石。


全ての始まりである「一」を得たものたち。天は一を得て清く澄み渡り、地は一を得て安定していて、神々は一を得て霊妙であり、谷川は一を得て水で満たされ、万物は一を得て生まれ、諸国の王は一を得て統治の資格を得た。全てこの様に「一」を得てその本質を得ているのだ。天がもし清くなければ裂けてしまうだろう。地がもし安定していなければ崩れ落ちてしまうだろう。神がもし霊妙でなければ誰も敬いはしないだろう。谷川がもし水で満ちていなければ枯れてしまうだろう。万物がもし生じる事なければ絶滅してしまうだろう。諸国の王に統治の資格がなければ王朝は滅ぶだろう。この様に貴いものは常に賤しいものが根本にあり、高いという事は常に低いものが根本にあるのだ。それだから諸国の王達は自分の事を「孤(みなしご)」とか「寡(ひとりもの)」とか「不穀(ろくでなし)」などと呼ぶのだ。これは賤しいものをこそ根本と考えているからなのではないだろうか。その事を忘れて名誉を求めようとすると帰って不名誉を受ける事になる。美しい宝石も路傍の小石もわざわざ選り分ける様な事をせず、ただ「一」だけを守っておれば良いのだ。


第四十章 无中生有


反者道之動。弱者道之用。天下萬物生於有、有生於無。


前に進むのではなく、後ろへ戻るのが「道」を知った人間の動き方だ。強くたくましいのではなく、弱々しいのが「道」を知った人間の在り方だ。この世の全ては「有」から生じるが、「有」は「無」から生じてくるのだ。


第四十一章 善貸且成


上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若類。上徳若谷、廣徳若不足、建徳若偸。質眞若渝、大白若辱、大方無隅。大器晩成、大音希聲、大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且善成。


優れた人間が「道」の事を聞くと、努力してそれを実行しようとする。普通の人間が「道」の事を聞くと半信半疑である。くだらない人間が「道」の事を聞くと馬鹿らしいと笑う。そうやってくだらない人間に笑われるくらいでなければ「道」とは言えないものだ。こんな言葉がある、「はっきりと明るい道は薄暗く見える。しっかりと前進する道は後退するかのようである。ほんとうに平坦な道はちょっとした起伏を大きく感じる。高い徳のありさまは低い谷川のようである。広く行き渡る徳は物足りなく感じる。確固とした徳はだらけきっているように見える。純粋なものほど柔軟に変化する。真っ白な物ほど黒く見える。大いなる四角には角が無く、大いなる器は完成が遅い。大いなる音は聞き取りづらく、大いなる形には明確な形が無い。」つまり「道」とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、もともと名づけようがないものなのだ。しかしそれでも「道」は万物に力を貸し与え、万物の存在を完成させている。


第四十二章 物損而益


道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽、沖氣以爲和。人之所惡、唯孤寡不轂。而王公以爲稱。故物或損之而益、或益之而損。人之所教、我亦教之。強梁者不得其死。吾將以爲教父。


「道」が一を生み出し、一が二つのものを生み出し、二つのものが三つのものを生み出し、三つのものが万物を生み出す。万物は陰の気を背負い、陽の気を胸に抱いて、これらを媒介する沖気によって調和している。人々は「孤(みなしご)」「寡(ひとりもの)」「不穀(ろくでなし)」などと呼ばれる事を嫌うが、諸国の王達はこれらを自称としてその高い身分を保っている。つまり物事と言うのは損して得をし、得をして損をするという事もあるのだ。人から聞いた良い事は私も人に教えよう「いたずらに強さを誇る者は、ろくな死に方をしない。」 私もまさにこれを肝に命じて教えの根本にしようと思う。


第四十三章 不言之教


天下之至柔、馳騁天下之至堅。無有入無間、吾是以知無爲之有益。不言之教、無爲之益、天下希及之。


この世の最も柔軟な物が最も堅固な物を思い通りにする事が出来る。また決まった実体を持たぬものだけが本当にわずかな隙間に入り込む事が出来る。私はこの事によって無為である事の有益さを理解しているのだ。言葉に頼らない無言の教えと、無為である事の有益さに匹敵するものは、この世にはほとんど無い。


第四十四章 知足不辱


名與身孰親。身與貨孰多。得與亡孰病。是故甚愛必大費。多藏必厚亡。知足不辱、知止不殆、可以長久。


名誉と自分の体はどちらが大事だろうか。自分の体と財産はどちらが大切だろうか。ものを得るのと失うのではどちらがより害があるだろうか。名誉にこだわれば必ず浪費をせねばならず、財産を蓄えれば必ずそれだけ多くの損失を出す。名誉や財産にとらわれずに満足する事を知れば屈辱などとは無縁になり、ほどほどを心得ていれば自らを危険にさらす事も無い。この様にして安らかに暮らす方が良い。


第四十五章 大成若缺


大成若缺、其用不弊。大盈若沖、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。清靜爲天下正。


本当に完全な物は何かが欠けている様に見えて、その働きは衰える事が無い。本当に満ちている物は空っぽに見えて、その働きは枯れる事が無い。本当に真っ直ぐな物は曲がっている様に見えて、本当に巧妙な者は下手くそに見えて、本当に能弁な者は口下手に見える。動き回れば寒さをしのげ、じっとしていれば暑さをしのげると言うが、清らかで静かな者こそが世界を支配しているのだ。


第四十六章 知足常足


天下有道、却走馬以糞、天下無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲、禍莫大於不知足、咎莫惨於欲得。故知足之足、常足矣。


世の中で「道」が行われていると、伝令の早馬は追いやられて畑の耕作に用いられるが、世の中で「道」が行われていないと、軍馬の活動が都の近くでも起こるようになる。人間の欲望ほど罪深いものは無く、足るを知らない事ほどの災いは無く、何もかも手に入れようとする事ほどの過ちは無い。だから足るを知ると言う事で得られる満足によってのみ、人は本当の満足を得られるのだ。


第四十七章 不行而知


不出戸知天下、不闘窓見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人、不行而知、不見而名、不爲而成。


玄関から出ずに世界の事を知り、窓から外を観ないで自然の摂理を知る。遠くへ出かければ出かける程に解る事は少なくなって行く。だから「道」を知った聖人は何処へも行かずに全てを知り、何も見ずに全てを理解し、何もせずに全てを成し遂げる。


第四十八章 貸道日損


爲學日益、爲道日損。損之又損、以至於無爲。無爲而無不爲。取天下常以無事。及其有事、不足以取天下。


学問を修めると日に日に知識が増えるが、「道」を修めると日に日に知識が失われていく。知識を減らした上にまた減らし、そうして無為の境地へと至るのだ。無為であれば出来ない事などありはしない。世界を支配するには、ありのままにまかせて余計な事はしない事だ。自分の思い通りにしようとして余計な事をすれば、世界を支配する事など出来はしない。


第四十九章 善者吾善


聖人常無心、以百姓心爲心。善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。聖人之在天下、歙歙焉、爲天下渾渾。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。


「道」を知った聖人は自分の為の心を持たず、人々の心を自分の心としている。人々から善人と呼ばれる人を善人として扱い、人々が善人と呼ばない人も善人として扱い、そうして彼の周りには善人だけとなる。人々から信頼される人を信じ、人々から信頼されない人も信じて、そうして彼の周りには信頼できる人だけとなる。聖人が世の中に対する時には小さく縮こまったようであり、思慮分別を遠ざけてぼんやりとした有様でいる。世の人々は見たり聞いたりした事についていちいち判断と区別をつけようとするが、聖人は耳目を閉ざして自分の為の心も閉ざす。


第五十章 出生入死


出生入死。生之徒十有三、死之徒十有三。人之生、動之死地亦十有三。夫何故。以其生生之厚。蓋聞、善攝生者、陸行不遇犀虎、入軍不被甲兵。犀無所投其角、虎無所措其爪、兵無所容其刃。夫何故。以其無死地。


人は皆この世に生まれては、いずれ死んで行く。十人の人がいれば寿命をまっとう出来るのは十人の内の三人くらいであり、寿命をまっとうできずに死んで行くのは十人の内の三人くらいである。自ら望んで死地に赴き死んで行く者もまた十人の内に三人くらいいる。何故そんな事になるのかと言えば、それは生に執着し過ぎるからである。伝え聞くところによると、「よく生をながらえる人は陸地を旅しても猛獣にあわず、軍隊に入っても鎧や兜を身につけ無い」という。猛獣の角や牙もその人を傷つける事は出来ず、兵士もその人を刃で斬る事が出来ない。それは何故かと言えば、生に執着する事が無く自然と死地を避けるからである。


第五十一章 尊道貴コ


道生之、徳畜之、物形之、器成之。是以萬物、莫不尊道而貴徳。道之尊徳之貴、夫莫之命而常自然。故道生之、徳畜之、長之育之、亭之毒之、養之覆之。生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。


「道」がこの世の万物を生み出し、徳がそれらを育て、それらの物が形となってそれぞれの役割を果たす事でこの世は成り立っている。だからこの世の全ては「道」を敬い、徳を大切にするのだ。「道」が敬われ、徳が大切にされるのは自然と沸き起こる感情であって、誰かにそうするのが正しい事だと教えられたからではない。だからこそ「道」は万物を生み出し、徳が育て、成長させ発育させ、結実させ成熟させて種を為して、それらをまた養い保護して万物を循環させているのだ。それでいながら「道」は万物を自分の物とせず、偉大な事をしてもその事に頼らず、万物の長であるのに取り仕切ったりせずあるがままにさせている。これら「道」の働きは「玄徳」すなわち自然に備わった不可思議な能力なのだ。


第五十二章 天下有始


天下有始、可以爲天下母。既得其母、以知其子。既知其子、復守其母、没身不殆。塞其兌、閉其門、終身不勤。開其兌、濟其事、終身不救。見小曰明、守柔曰強。用其光、復歸其明、無遺身殃。是謂襲常。


この世の全てには始まりがある。それを仮に万物の母と呼ぶことにする。その母の事が理解できれば、その子である万物の事が解る。子である万物を理解し、その母を守るならば、生涯危険を避ける事ができるだろう。目や耳を塞いで余計な知識を排除すれば、無駄な事をして疲れる心配も無い。目や耳を開け放って余計な知識を得ようとすれば、無駄な事ばかりして一生救われる事は無い。目や耳でとらえられぬ物を見るのを「明らかな智」といい、弱々しい立場を保つ事を「真の強さ」という。この万物を照らす光をもって明らかな智に立ち返れば、身の災いはすべて消え去っていくだろう。こうやって生きる事を「普遍の道に従う」という。


第五十三章 盗竿非道


使我介然有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、而民好徑。朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帶利劔、厭飮食、財貨有餘。是謂盗夸。非道也哉。


もし私に少しでも余計な知識があったとしたら、大きな道を歩く時にその知識にひかれて脇道にそれる事を恐れるだろう。この人生の大きな道はとても平坦で歩きやすいのに、世の人々は少しでも近道をしようと脇道に入って自ら苦難の道を行く。朝廷は整然と掃き清められているのに、田畑は荒れるにまかせていて、米倉には少しも備蓄が無い。それなのにきらびやかな衣装を身にまとい、するどい剣を腰に帯びて、たらふく飲食して、有り余る財産を持っている輩が居る。こういう輩はいかに外見を貴く装っていても本質的に盗賊と変わりはしない。彼らは「道」から外れている。


第五十四章 善抱不脱


善建者不抜、善抱者不脱。子孫以祭祀不輟。修之於身、其徳乃眞。修之於家、其徳乃餘。修之於郷、其徳乃長。修之於邦、其徳乃豐。修之於天下、其徳乃普。故以身觀身、以家觀家、以郷觀郷、以邦觀邦、以天下觀天下。吾何以知天下然哉。以此。


しっかりと建てられた柱は簡単に抜ける事は無く、しっかり抱え込まれた物が抜け落ちる事は無い。この様に「道」をしっかり守っていれば、子孫は栄えて先祖の供養が絶える事は無いだろう。こうした「道」の実践を個人で行えばその効用は確実であり、一家で行えば効用は有り余る程である。村で行えば効用は長持ちし、国で行えば効用は豊かになる。これを天下万民が行えばその効用は広く隅々まで行き渡る。だから私は人を見るときにはその「道」の修め方を見る。一家を見る時も、村を見るときも、国を見るときも、天下を見る時も、その「道」の修め方を見るのだ。私がどうやって天下の情勢を知るかといえば、この様にしてである。


第五十五章 含コ之厚


含徳之厚、比於赤子。蜂蠍毒蛇不螫、猛獸不據、攫鳥不搏。骨弱筋柔而握固。未知牝牡之合而全作、精之至也。終日號而不嗄、和之至也。知和曰常、知常曰明。益生曰祥、心使氣曰強。物壯則老。謂之不道。不道早已。


内なる徳を豊かに備えた人の有様は、赤ん坊に例えられる。赤ん坊には毒虫や毒蛇の類が刺したり噛み付いたりせず、猛獣や猛禽も傷つけようとはしない。骨は弱く筋肉は柔らかいが拳を握れば固い。男女の交わりも知らないのに陰茎がちゃんと勃起するのは、その精力が最高だからである。一日中泣いても声がかれないのは、その身体の調和が最高だからである。調和を知る事が常の道を知る事であり、常の道を知る事は「明らかなる知恵」と呼ばれる。無理に寿命を長くしようとする事は不吉であり、頭で気力を盛り上げようとするのは無理強いである。物事は勢いがあればそれだけ衰えるのも早いものだ。これを「道を弁えない行為」と言うが、「道」を弁えていないと早々に滅びが訪れる。


第五十六章 知者不言


知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。


本当に理解している人はそれらについて話さない。べらべらと語りたがる者はまだ理解が足りないのだ。本当に道理が解っている人間は耳目や口を塞いで余計な知識の出入り口を閉ざし、鋭敏な感覚を鈍くして意識のもつれを解きほぐし、自らの輝きを和らげて何でもない塵と一つになる。これを神秘なる同一と言う。この同一を得た人は、近づいて親しむ事もできず、遠ざけて疎遠にする事もできない。利益を与える事もできなければ、損害を与える事もできない。敬って尊ぶ事もできなければ、卑しんで侮る事もできない。そうしてこの世で最も貴い存在となっているのだ。


第五十七章 以正治国


以正治國、以奇用兵、以無事取天下。吾何以知其然哉。以此。夫天下多忌諱、而民彌貧。民多利器、國家滋昏。民多智<慧、邪事滋起。法令滋彰、盗賊多有。故聖人云、我無爲而民自化。我好靜而民自正。我無事而民自富。我無欲而民自樸。


国を治めるには正しいやり方で行い、戦には奇策を用いると言われるが、天下を得るには作為的な事は何もしない方が良い。私が何故そう思うのかと言うと、以下の通りである。世の中が規則や法律でがんじがらめになると自由な生産が妨げられて民衆が貧しくなり、その民衆が生活を豊かにしようと便利な道具を使うようになると国家が混乱し、そうして余計な知恵をつけた民衆の中から悪事を働くものが出るようになり、そしてさらに規則や法律が増やされてまた盗賊が増えるという悪循環に陥るからだ。だから「道」を知った聖人は以下の様に言う、「私が余計な事をしないからこそ、民衆は自ら感化される。私が静かに動かないでいるからこそ、民衆は自らを正す。私が特に何もしないからこそ、民衆は自ら豊かになる。私が無欲であるからこそ、民衆も素朴な生活を楽しめるのだ」と。


第五十八章 福災相倚


其政悶悶、其民醇醇。其政察察、其民缺缺。禍兮福之所倚、福兮禍之所伏。孰知其極。其無正。正復爲奇、善復爲奇。人之迷、其日固久。是以聖人、方而不割、廉而不傷、直而不肆、光而不耀。


政治がおおらかで曖昧であれば人々は純朴で豊かに暮らす事ができる。政治が事細かにきっちりしていると人々は利を求めてピリピリする様になる。災いは福の始まり、福は災いの始まりでこの循環がどこへ行き着くかは誰も知らない。そもそもこの世に常識なんてものは無いのだが、こちらで常識であったものがあちらでは非常識となり、こちらでの善い事があちらでは怪しげな事になる。世の人々はその事に気づかずにずっと迷い続けているのだ。だからこそ「道」を知った聖人は、品行方正でありながら善悪を区別せず、清廉でありながら他人を非難せず、真っ直ぐでありながら他人に無理強いはせず、まばゆいばかりの智恵を持ちながら目立とうとはしないのだ。


第五十九章 治人尚嗇


治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以早服。早服、謂之重積徳。重積徳、則無不克。無不克、則莫知其極。莫知其極、可以有國。有國之母、可以長久。是謂深根固柢、長生久視之道。


人々を治めて天命に従うのなら倹約に勝るものは無い。倹約をするからこそ無駄な事をせずに早く「道」に従う事ができるのだ。早く「道」に従えば多くの徳を積み重ねる事が出来る。多くの徳が積み重なれば何者にも勝る事が出来る。何者に勝る事が出来ればその果報には際限が無い。果報に際限が無ければ国家を安定維持する事が出来る。国家を安定維持する事の母、すなわち倹約によって国は長く栄えるであろう。これを「樹木が地底に深く根を張る様に、活力を保ちながら長生きする道」と言う。


第六十章 以道治国


治大國、若烹小鮮。以道莅天下、其鬼不神。非其鬼不神、其神不傷人。非其神不傷人、聖人亦不傷人。夫兩不相傷。故徳交歸焉。


大きな国を治める時には、小魚を煮る時の様に無闇にかき回さずじっとしてると良い。この様に「道」にしたがって世の中を治めるならば、鬼神が人に祟(たた)りを為す事が無い。鬼神が人に祟りを為さないだけで無く、祟りそのものが人に害を為す事も無いのだ。祟りが人に害を為す事が無いだけで無く、「道」を知った聖人の政治も人に害を為す事も無い。こうして鬼神も人も害を為す事が無いので、その恩恵が人々の身に降り注ぐのである。


第六十一章 大者宜下


大國者下流。天下之交、天下之牝。牝常以靜勝牡。以靜爲下。故大國以下小國、則取小國、小國以下大國、則取大國。故或下以取、或下而取。大國不過欲兼畜人、小國不過欲入事人。夫兩者、各得其所欲、大者宜爲下。


大国というのは、言わば大河の下流の様なものだ。天下のあらゆる物が流れ込んで来る所であり、天下の全てを受け入れる牝(メス)である。牝は常に静かにじっとしていながら牡(オス)に勝つ。それは静けさを保ちながら、牡に対してへりくだっているからなのだ。その様に大国が小国にへりくだれば小国の服従を得て、小国が大国にへりくだれば大国の保護が得られる。こうしてある者はへりくだって信頼を得て、ある者はへりくだって安心を得る。この様な大国は小国の人々も養いたいと思うだけであり、小国はそんな大国の役に立ちたいと思うだけである。これらの国々がお互いに望みを叶えようとするならば、まず力のある大国の側がへりくだるべきである。


第六十二章 万物之奥


道者萬物之奧。善人之寳、不善人之所保。美言可以市尊、美行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有拱璧以先駟馬、不如坐進此道。古之所以貴此道者何。不曰求以得、有罪以免耶。故爲天下貴。


「道」はあらゆるものを包み込む万物の根源である。善人が大切に守るものであり、善人では無い者もこれによって守られるものである。飾り立てた言葉によって尊敬を得る者もいるし、飾り立てた行動によって人の上に立つ者もいるのだから、善人では無いというだけで、どうしてその人を見捨てる事ができるだろうか。だから天子の即位や大臣の任命の時に、豪華な宝物を四頭立ての馬車に載せて献上する事があるけれども、そんな事をするよりも座ったままで「道」を守る様に進言した方が良い。昔の人々がこの「道」を大切にした理由は何であろうか? それは「道」によって求めるものが得られ、「道」によって過ちが許されるからである。だからこそ「道」はこの世で最も貴いものとなっているのだ。


第六十三章 能成其大


爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不爲大、故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難。


「特に何もしない」という事をして、「なんでも無い事」を仕事として、「味気の無い生活」を味わう。小さなものを大きく捉え、少ないものを多く感じて、人から受けた怨みには徳をもって報いる。難しい事はそれがまだ簡単なうちによく考え、大きな問題はそれがまだ小さいうちに処理する。この世の難しい事は必ず簡単な事から始まり、大きな問題は必ず小さな事から始まるのだ。だから「道」を知った聖人はわざわざ大事を成そうとはしない、小さな事を積み重ねて大事を成すのだ。安請け合いをしていては信頼など得られないし、安易に考えていると必ず困難な目に合う。しかし聖人は些細な事でも難しい問題として対処するので、結果的に特に難しい事もなく問題を解決できるのだ。


第六十四章 无爲无敗


其安易持、其未兆易謀。其脆易絆、其微易散。爲之於未有、治之於未亂。合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土、千里之行、始於足下。爲者敗之、執者失之。是以聖人、無爲故無敗、無執故無失。民之從事、常於幾成而敗之。愼終如始、則無敗事。是以聖人、欲不欲、不貴難得之貨。學不學、復衆人之所過。以輔萬物之自然、而不敢爲。


物事が安定している時にはそれを維持しやすく、不安定な兆しが見えないうちは問題に対処しやすい。柔らかな物は溶かしやすく、細かな物は飛び散りやすい。つまり問題というのは、それらが現実となって混乱が生じる前に対処するべきなのだ。一抱えもある大木も毛先ほどの芽から生まれ、大きな建物も土台を盛る事から始め、千里の道も一歩から始まる。そうした基本を忘れて何かをしようとすれば台無しになり、何かに執着すればかえって失う事になる。そこで「道」を知った聖人は余計な事をしないので台無しにする事もなく、物事に執着しないので失うこともない。人々が何かをしようという時は、あと少しで完成という所で油断して台無しにしてしまう。完成間近の時こそ始めの様に慎重にすれば、失敗する事などないのだ。だから聖人は欲望を抑え、貴重な品々には目もくれず、余計な知識を排除して、人々の行き過ぎた欲望や知識から焦りや油断が生まれぬようにする。こうして万物自然のありのままの姿を大切にして、ことさらに何か余計な事をしないのだ。


第六十五章 善爲道者


古之善爲道者、非以明民、將以愚之。民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊。不以智治國、國之福。知此兩者、亦稽式。常知稽式、是謂玄徳。玄徳深矣、遠矣。與物反矣。然後乃至大順。


古くからの「道」を充分に修めた人は、民衆を聡明にしようとはしなかった、むしろ愚直にしようとしたのだ。民衆が治め難いのは余計な知恵がついたためである。だから知恵に頼って国を治めようとするのは国を滅ぼす原因となる。余計な知恵を用いず国を治めれば国は安泰である。これら二つは国を治める時の法則である。この法則を常に守る事を「玄徳(神秘なる徳)」という。玄徳は深遠で測りがたく、この世の万物と共に帰る。つまり大いなる順応によって無為自然へと至る道なのだ。


第六十六章 莫能与争


江海所以能爲百谷王者、以其善下之、故能爲百谷王。是以欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭、故天下莫能與之爭。


大河や海が幾百もの谷川の水を集めて河川の王となっているのは、常に下流にあってへりくだっているからである。だからこそ河川の王となれるのだ。そこでもし民衆の上に立とうとするならば、必ず謙虚な物言いで人々にへりくだり、民衆の前に立とうとするならば、必ず自分の身を人々の後にするべきだ。だから「道」を知った聖人は、民衆の上に立っても彼らの重荷とならず、民衆の前に立っても彼らの邪魔とはならない。そうやって天下の人々は彼を喜んで指導者として推戴し、誰も嫌がる事が無い。他人を押しのけて指導者になろうとする訳ではないから、誰も彼と争おうとする者がいないのだ。


第六十七章 我有之宝


天下皆謂我大似不肖。夫唯大、故似不肖。若肖、久矣其細也夫。我有三寳、持而保之。一曰慈、二曰儉、三曰不敢爲天下先。慈故能勇、儉故能廣、不敢爲天下先、故能成器長。今舍慈且勇、舍儉且廣、舍後且先、死矣。夫慈、以戰則勝、以守則固。天將救之、以慈衛之。


世の人々は私の事を「偉大だけれども、愚か者の様だ」と言う。偉大だからこそ愚かに見えるのだ。もし人並みであったならば、とうの昔に取るに足らない人物になっていただろう。私には三つの宝物があって、それを常に大切に守っている。第一に慈しみの心、第二に倹しく暮らす事、第三に人に先んじようとしない事である。慈しみの心があれば、人々のために勇敢にもなれる。倹しく暮らしているから、心広々とし気持ちが豊かになる。人に先んじようとしないから、人々を上手く用いる指導者となれるのだ。もしも今、慈しみの心無くして勇敢であろうとし、倹ましく暮らさずに心豊かになろうとし、人々を押しのけて先んじようとすれば、死あるのみだ。だが慈しみの心があれば人々を団結させて、戦えば必ず勝ち、守りを固めれば敗れる事は無い。天もそんな人々を救おうとし、慈しみの心によって守ってくれるのだ。


第六十八章 不争之コ


善爲士者不武。善戰者不怒。善勝敵者不與。善用人者爲之下。是謂不爭之徳、是謂用人之力、是謂配天。古之極。


良い武人というのは猛々しくない。戦いが上手い者は怒りを見せない。勝利するのが上手い者は敵とは争わない。人を使うのが上手い者は相手にへりくだっている。こういうのを「争わない徳」と言い、「人の力を活用する」と言い、「天と並ぶ」と言って、古くからの法則である。


第六十九章 哀者勝矣


用兵有言、吾不敢爲主而爲客、不敢進寸而退尺。是謂行無行、攘無臂、執無兵、削無敵。禍莫大於輕敵。輕敵幾喪吾寳。故抗兵相如、哀者勝矣。


用兵術にこんな言葉がある、「こちらから攻撃するよりは、むしろ守って応戦せよ。わずかの距離を進軍するよりは、むしろ大きく後退せよ」と。これは「行軍しようにも道が無く」「振り上げようにも腕が無く」「命令しようにも兵が無く」「攻撃しようにも敵がいない」と言われる事である。戦いにおいては敵を軽視する事以上の災いは無い。敵を軽視すれば私の言う三つの宝、「慈しみの心」「倹しく暮らす事」「人に先んじようとしない事」の効力をほとんど失ってしまう。だから同兵力での戦いの時には、慈しみの心で事態を哀しむ方が勝つのだ。


第七十章 被褐抱玉


吾言甚易知、甚易行。天下莫能知、莫能行。言有宗、事有君。夫唯無知、是以不我知。知我者希、則我貴矣。是以聖人、被褐而懷玉。


私の言っている事は本当はとても解り易く、誰にでも簡単に出来る事なのだ。しかし世の人々はそれを理解できず、また行う事も出来ない。私の言葉や行いには要点があるのだが、人々はそれに気づかないでいる。だから私の言う事が理解できないのだ。だが私の言葉を人々が理解できないという事は、それだけ私という存在が貴重という事でもある。このように「道」を知った聖人は、粗末な衣服を着ていながらも心の内には大切な宝を抱いている。その貴さは上辺からは理解できないのだ。


第七十一章 以其病病


知不知上、不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病、以其病病、是以不病。


自分がよく理解していてもまだよく解っていないと考えるのが最善であり、よく解っていないことを解ったつもりになってしまうのが人間の欠点である。そもそも自分の欠点を欠点として自覚するから、それを改善することもできる。このように「道」を知った聖人は、自分の欠点を欠点と素直に認めて改善しているからこそ、欠点の無い聖人でいられるのだ。


第七十二章 自愛不貴


民不畏威、則大威至。無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此。


為政者の権威を恐れなくなるほどに民衆を追い詰めると、世は乱れて大いなる天の罰を受けることになる。人々の住む所をおびやかしてはならないし、人々の生業を邪魔してはならない。人々の生活をおびやかす事がなければ、人々が為政者をおびやかす事も無い。だから「道」を知った聖人は、自らの分を弁える知恵を備えて自ら目立とうとはせず、自らを愛しながらも自らを特別な存在だなどとは思わない。こうして権威を振りかざす政治を捨て去り、余計なことはしない無為の政治を選ぶのだ。


第七十三章 天网恢恢


勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。天之道、不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、主君然而善謀。天網恢恢、疏而不失。


裁判官が勇気をもって刑を執行すれば罪人は殺され、勇気をもって刑を免除すれば罪人は生き延びる。この二種類の勇気は、それぞれ時と場合によって良いとされたり悪いとされたりする。人間の裁きでさえその是非を判断するのは困難なのに、天の裁きについてはなおさら人の身で理解するのは困難である。大いなる天のやり方は、争わずに勝利し、言葉を用いずに応え、呼びよせずに自ら来させ、ゆったりとしながら遠大な計画を内に秘める。天が悪を捕える網は、粗い目をしているように見えて悪を決して逃しはしない。


第七十四章 民不畏死


民不畏死、奈何以死懼之。若使民常畏死、而爲奇者、吾得執而殺之、孰敢。常有司殺者殺。夫代司殺者殺、是代大匠削。夫代大匠削者、希有不傷其手矣。


民衆が死を恐れなくなるまで追い詰めてしまったら、どのような刑罰をもって彼らを恐れさせる事ができるだろうか。もし人々が生を楽しみ死を恐れるような世の中に、秩序を乱す輩がでたならば、私はその者を捕えて殺すことができよう。だが一体誰がその刑を実行するのか。人の生死はそれを司るものが殺すのだ。生死を司るものに代わって人を殺すというのは、素人が大工に代わって木を削るのと同じことだ。そのような無理をすれば、結局自らが傷つく事になる。


第七十五章 无以生爲


民之飢、以其上食税之多、是以飢。民之難治、以其上之有爲、是以難治。民之輕死、以其求生之厚、是以輕死。夫唯無以生爲者、是賢於貴生。


民衆が飢えに苦しむのは、お上が税を取り立て過ぎるからで、それゆえに飢えるのだ。民衆が逆らいがちになるのは、お上があれこれと余計な事をするからで、それゆえに逆らうのだ。民衆が命を軽んじるのは、人々が自分の命に執着するからで、それゆえに命を軽んじる様になるのだ。そもそも人生についてあれこれ考えずにありのままに生きる者こそ、無駄に知恵を働かせて人生を尊ぶ者より勝っている。


第七十六章 強大処下


人之生也柔弱、其死也堅強。萬物草木之生也柔脆、其死也枯槁。故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。是以兵強則不勝、木強則折。強大處下、柔弱處上。


人の体は生まれてくるとき弱々しく柔らかいが、死ぬと固く強ばってしまう。草木やその他の生命も生まれてくるときは柔らかで脆くみえるが、死ぬと固く干からびてぼろぼろになってしまう。つまり固く強ばっている方が死に近く、柔らかく弱々しい方が生に近いのだ。だから軍隊がいくら強くとも力攻めでは勝てないし、樹木に柔軟性がなければ簡単に折れてしまう。このように強く大きなものこそ下にあり、弱く柔らかいものこそが上にあるのだ。


第七十七章 不欲見賢


天之道其猶張弓與。者抑之、下者擧之。有餘者損之、不足者補之。天之道損有餘而補不足。人之道則不然、損不足以奉有餘。孰能有餘以奉天下。唯有道者。是以聖人、爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢。


無為自然の天の道は、弓に弦を張るときと似ている。上の部分は下に引き下げ、下の部分は上に引き上げる。弦の長さが長すぎれば短くし、短すぎればつぎ足す。この様に天の道は余った所を減らして足りない所を補っているのだ。しかし人の世の道はそれとは逆で、足りない所からさらに奪って余っている所に補っている。自らに余るものを人々に分け与える者は誰であろうか。それは「道」を知った者だけである。そうして「道」を知った聖人は、何かを成し遂げてもそれに頼らず、過去の功績にいつまでもしがみつかず、自分の賢さを人に誇る事も無い。


第七十八章 柔之勝剛


天下莫柔弱於水。而攻堅強者、莫之能勝。以其無以易之。弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。是以聖人云、受國之垢、是謂社稷主、受國不祥、是謂天下王。正言若反。


この世に水よりも柔らかく弱々しいものは無いが、それでいて固く強いものを打ち破ることにおいて水に勝るものも無い。その性質を変えることのできるものが存在しないからである。弱いものが強いものに勝ち、柔よく剛を制すとは世によく知られたことだが、それを行うとなると難しい。そこで「道」を知った聖人は言うのだ、「国家の屈辱を甘んじてその身に受ける者、その人が国家の主であり。国家の災いを甘んじてその身に受ける者、その人が天下の王である」と。本当に正しい言葉は普通とは逆の様に聞こえるものだ。


第七十九章 道与善人


和大怨必有餘怨。安可以爲善。是以聖人執左契、而不責於人。有徳司契、無徳司徹。天道無親、常與善人。


深刻な怨みからくる争いを無理やり和解させても必ず火種がくすぶり続けるものだ。どうしてそれが善い事だと言えるだろうか。だからこそ「道」を知った聖人は、例え契約や法によって正義が自分にあっても相手を責めたりはしない。徳のある者は債券を管理するだけ、徳の無い者は無慈悲に取り立てを行うと言われる事である。天のやり方にはえいこひいきが無く、いつも善人の味方をする。


第八十章 小国寡民


小國寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗、鄰國相望、鶏犬之聲相聞、民至老死、不相往來。


人口の少ない小さな国がある。便利な道具があっても誰も使わず、人々は命を大切にして危険な遠出をしたりせず、船や車はあるが誰も乗らず、鎧や武器はあるが誰も身に着けない。人々は昔ながらの素朴な暮らしを送り、その日の食事を美味しく食べ、着ている衣服を立派だと思い、自分の住居で安らかに暮らす。そんな暮らしを楽しんでいるので、隣の国がすぐ近くに見えて、その鶏や犬の鳴き声が聞こえるほどであっても、人々は老いて死ぬまで、お互いの国を行き交う事もない。これこそ人の世の理想郷である。


第八十一章 善者不弁


信言不美、美言不信。善者不辯、辯者不善。知者不博、博者不知。聖人不積。既以爲人己愈有、既以與人己愈多。天之道利而不害、聖人之道爲而不爭。


信頼に足る言葉には飾り気がなく、耳障りの良い言葉は信頼するに足りない。善人とは多くを語らないもので、おしゃべりな人は善人とは言えない。本当に知恵がある人は物知りでは無いし、物知りな人に大した知恵は無い。そうして「道」を知った聖人は蓄えをせず、人々のために行動して大切なものを手に入れ、人々に何もかも与えてかえって心は豊かになる。天は万物を潤しながらも害を与える事はなく、聖人は他人と争わずに物事を成し遂げる。






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