チャーリー横山の「神仙道宝塚」、無為自然の道(タオ)を歩んでください。

無為自然の道(タオ)「神仙道宝塚」
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神仙道チャーリー横山

天丹法とは、静座による修行法で仙道での最も基本的な行法です。 不老不死の仙人を目指すには生理機能を強化し「内分泌の変化」を実現することが重要となります。 そのためには体内の陽気を強化しなければなりません。 この陽気が強化されると丹田あたりに温かい気を感じるようになります。 つまり仙道の修行とは、この陽気の強化が重要で、その第一歩が静座からはじまります。


太極周天功 チャーリー横山

築基天丹法
築基天丹法については「仙学研究舎」のサイトで上手くまとめられていますので「仙学研究舎」の文章から引用します。

第1段階「築基入手工夫(道術)」

内丹の築基段階では、人体の生理機能の衰えを補足し、同時に任脈・督脈と三関の経路をとりあえず通じさせ、気や熱が体全体を通るまでにして丹を煉り薬を運ぶ準備をする。実際には、この段階では精が満ち、気が足り、神が旺盛であるという条件は整わない。病気治療や健身のための気功療法もすべて築基入手工夫に属する。今日医療に用いられる気功のほとんどが内丹の築基段階の道術が変化したものであることを指摘しておこう。ただし、気功師の「小周天気功」や「大周天気功」は、内丹の「小周天」や「大周天」の仙術とは根本的に異なったものである。なぜなら気功師の言う「任督を通る」、「三関を過ぎる」は、意念によって後天の「気」を導き循環させるだけで、玄関も開かず、薬物・火候・鼎器もないのである。意念を用いて気を貫通させ任脈・督脈を循環することは、俗に「転河車」と言う。張伯端の《悟真篇》は、「咽津納気は人の行であり、薬の処方を有するものは生を造り化すことができる。鼎の中にもし真の種子がなければ、水と火は空っぽのなべをにているようなものである」と述べているが、これは築基道術で気が任脈・督脈を通ることと仙術の「転河車」が別なものであることを言っているのである。気功師の「大周天」は、気を下肢に通し、気の感覚を全身に行き渡らせることであるが、これもやはり築基段階の後天の気功に属するものである。それと内丹の大周天の煉化神を同じように論じるわけにはいかない。内丹の道術段階は、まず部屋に入って静かに座る。身体を調え、心を調え、念を止めて竅を守り[竅にじっと意識をかけ]、リラックスして、静かで自然であるようにし、心と呼吸が助け合うようにする。ここでの要求は気功師の要求とほぼ同じである。

任督二脈図
任督二脈図(金仙証論)

柳華陽はこの図について次のように述べている。 「この図は最高機密を漏らしたもので、大薬を得ようとする人たちが運行の経路をまちがえないようにと願ってここに載せた。この内丹道の最高機密を私は軽々しく漏らしたわけではない。古の聖人はこのような図を描かなかったが、きちんと説明を残しておいてくれた。それがすべてを明かしたものでないのが残念なのだが。旧説では督脈は背骨の外側にあるとか、任脈は上下の唇で止まっているとか言っているが、これらはともに凡庸な医学者たちの学説である。神仙家が言う任脈督脈は、彼らの実体験にもとづいている。運行は一回に限らない。神・気の結晶である玄妙な金丹は任脈督脈の中を数百回運行してはじめて完成する。間違った考え方をしているのは凡庸な医学者だけではなく、現代の内丹家もでたらめなことを言っている。専門家がこの境地を自分で会得せず誤った指示を出し、初心者がそれを盲信してしまって志を貫徹できないのはまことに残念である。だから私は師から授かった口訣と自分の体験した境地を照合することによって図を描き誤解を正そうとした。この図が公開されれば、魔術師やエセ学者たちが人を欺いて身体を害する余地などなくなってしまうだろう」。

内丹仙術の初関は精を煉ることであり、人間の性機能を煉ることからはじめる。だから築基段階ではまず精を補い、性機能が健全であるようにする。精は丹功の土台であり、精を保ち腎を固めることは最も重要なことである。その方法は、舌の先を上顎の天池穴に付け、唾液が生じるのを促し、唾液で精を補うのである。精が枯れ陽が萎えてしまった老年の人にはこの方法は無理なので、必ず敲竹喚亀(女性は鼓琴引鳳)の法[性功の入静を用いて命功が動き出すのを待つ方法]を用いて真陽を喚起しなければならない。あるいは添油接命の術[この法は天心祖竅を要所とし、その竅は開いていないと玄関といい、開くと玄竅という。虚が極まり静が篤くなるとこの竅が現れる]で真陽が生じるのを促し、真陽を芽生えさせて玄関一竅が開くと、丹功の仙術を行うことができる。精を補い精を生じる陰という竅は、非常に重要である。この竅は会陰穴のことであり、三岔口、上天梯、河車路、海底、危虚穴、生死穴などの異名がある。陰は上は天谷に通じ、下は湧泉に達している。真陽が生じる時に、この穴の経過に従って薬を生じ薬を採ると、腎機能と内分泌の作用を調節することができる。内丹家は精が人間の生命の本であると考えている。バイタリティーにあふれているかどうかということは、生理的には性機能が健全であるかどうかということである。青春を取り戻し、老いた者を若返らせ、白髪を黒色にもどし、歯は落ちて生えかわる、これが内丹学の追求する目的である。無論どの流派の内丹功法も例外ではない。

小周天運行図
転河車


「精・気・神」は人間の生命を維持する三宝であり、築基の修練はこの三宝を補足することである。精が満ち、気が足り、神が旺盛であるようにして、その3つが完全であるようにするのである。精が満ちていることは歯に現れ、気が足りていることは声に現れ、神が旺盛であることは眼に現れる。築基が完成すると、歯は健全で、声はよく通り、目には光があるようになる。これは生命力が旺盛である証拠であり、内丹を修練できるようになったという証拠である。

≪ 煉己 ≫

柳華陽は《金仙証論》の中で「己というものは、本来は虚霊[虚の働き]である。動が意であり、静が性であり、不思議な働きが神である」と説明している。つまり、煉己は心性に対する修練のことである。修行者は部屋に入ると、外的には目と耳を閉ざし、内的には何も考えず、怒りを戒め欲を防ぐようにする。一切の雑念を消し、識神を退かせると、元神が再び現れ、本来は何の兆しもない真意の状態が回復する。北派の清静丹法では性学を七分、命理を三分説明している。このために、北派では性を煉ることを第一に置き、築基の最初に修練する。実際には、心を煉ることは終始一貫して重要な修練である。上等根器の人は、はじめから己を煉って虚に還る。虚であれば優れた働きがあるので、頓法[急速に進む方法]に徹して、直ぐに無為という最高の境地に入れる。しかし、多くの人は漸法[ゆっくり進む方法]を用いなければならない。怒りを懲らしめ欲を塞ぐことから始め、怒りを懲らしめたり欲を塞いだりする必要がないようになる。やがて、懲らしめたり塞いだりする念を忘れるようになると、煉己の要求を達成する。

煉己の目標は虚に帰ることである。虚というのは、純から静に変わり、静から杳[影も形もないこと]に変わり、頭の中に思考のない状態が現れることである。この時、虚霊である元神がはっきりと静かに意識される。


第2段階「煉精化気(初関仙術)」

鼎


初関仙術は小周天の丹功に属する。小周天は転河車ともいい、泥丸宮を鼎とし、下丹田を炉として精を煉って気に変える丹法である。この段階では元精が薬物で、気が動力で、神が主宰である。最終的には精と気を煉り丹を生み出すもととなるに変える。元精は後天の自然界の物質とは違い、形も質もなく、先天の機能に属している。それは本来は元気と同じものである。この2つは互いに転化し、動くと元精になり、静まると元気になる。人間は父と母から元気を受け継ぎ、生まれた後はそれを気穴(下丹田)に収めている。成長して16歳になると、丹田の元気は自然に動き始め、暖信[暖かい感覚]が陽関に至れば、生殖器は自然に勃起する。もし修練することがなければ、神は情に変わり、元精は質のある淫の精に変化して「熟路」を経て排泄される。つまり、「順は人を生む」のである。内丹家は「逆に仙に成る」ために、元精を引き止め、精を煉って気に変え、小周天の功法を行い精を戻し脳を補う(環精補脳)。

内外二薬大小両鼎図
内外二薬大小両鼎図

内経図
内経図

≪ 調薬 ≫

薬は人体の元気のことである。それには順と逆の変化があり、順は元精に変わり陽関を経て外へ漏れることであり、逆は気穴に返ることである。内丹家は逆の変化の機会を捕らえ、神を凝らして元気を気穴に入れ、元精を外から摂取して炉に投入する。これは「勒陽関[陽関を制御する]」と言い、「調外薬」とも呼ばれる。

調薬の功法では調法・調所・調時の3つを掌握しておかなければならない。調法の要領は神を凝らして気穴に入れることで、神と気が助け合うようにするということにつきる。調所は気が動く場所のことであり、調時は陽物が動こうとする時である。この時武火を用い、後天の呼吸を先天の気穴と結び付け、正念を気の動く場所に深く入れる。生じた精を丹田穴に入れ、神と気を交わらせて一つに集める。そのすぐ後、再び文火を用いて温養し、呼吸することも意念をかけることも忘れ、さりげなく意識していると、やがて薬が生じる。

思ってもいないのに生殖器が動く時、身体は「活子時」である。この時、一陽が初めて動き、目の前に光が現れ(陽光一現)、元気が生成する。これを産薬と言う。小周天で生じる薬は「小薬」と呼ばれ、「真種子」とも言う。小薬が生じる時、身体の周囲が融和したように感じ、手足はむずがゆく、心はぼんやりして酔ったようなほうけたような感じになる。また、陽物が勃起し、精が生じて気が動き、任脈と督脈が自然と開く。この時、急いで「採、封、煉、止」の法を行わなければならない。


≪ 採薬 ≫

薬が生成する状態が現れたら、驚いたり恐れたりしないで、時を待って薬を採る。固くもなく軟らかくもない一塊の暖気が形成されたという感覚が生じると、元気がすでに満ちあふれ、薬が生じる時であることがわかる。時期を捕らえたら、速やかに武火を起こし、意識して呼吸し、神を凝らしてと一つにして薬を炉に投入する。

火を起こして薬を炉に投入した後、炉の中で文火で温養しなければならず沐浴して帰根し、神と気を伏すことを、封固と言う。


≪ 煉薬 ≫

薬を採って炉に投入した後、速やかに火を起こし、文火を武火にし[柔らかな意念から強い意念に変える]、薬物を煮詰めて煉り、精を気に変えることによって精が漏れるという患いを絶ってしまう。武火のあと再び文火を行い[柔らかい意念にもどし]、心と呼吸を助け合わせて丹田を常に温める。火候が十分に足り、真気が充満して散らなくなると、関が開く時がある。この時丹田は発熱し、熱が極まると薬は動き始める。気が足りていると関に突き当たるようになるので、急いで「吸、舐、撮、閉」の四字訣を行って、真意によって生死竅[会陰穴]から尾閭穴に引き入れ、督脈に沿って三関を通り真っすぐ頭のてっぺんの泥丸宮に上げる。泥丸宮で少し停めた後(去砿留金)任脈を通って絳宮を過ぎて下降し丹田に戻す。これが河車の運転である。丹家は「火を集めて金を載せ、火が強いて金が行く」と言っている。子午で陽火を進め、陰符を退き、卯酉で沐浴し、小周天丹法を行う。一度が動き出したら、薬を採って河車を回し、一周天を煉り終わらなければならない。動いてまた動き、煉ってまた煉って、回してまた回すようにする。うまい具合に修練が進むと、一回の吸気で神と気が乾頂に上がり、一回の呼気で神と気が丹田に戻せるようになり、呼吸のたびに一回循環する。定に入った後、神は気の動きに付き従って任脈と督脈の2つの脈に沿って止むことなく巡り、真気はもはや陽[陽物]には行かない。これは法輪が自然と回ると呼ばれる。「玄妙機(奥深くとらえがたい機密)」に合致した周天は、河車を回す薬があって、それを法のとおりに採って封じ、適度に煉って適度に止めるものである。このときには、神ははっきりしていて気は清浄である。このようにして百日の間修練を重ね、玄妙機に合致した三百周天が完成すると、精は気に変わってしまって漏れなくなり、淫根は動かなくなる。こうして「漏尽通」が完成する。

このようにして完成した無漏の身体は、淫根が童子のように縮み、嬰児のように真気が満ち足りている。内丹家はこのような無漏の身体を本に返り仙と成るためには必要不可欠なものであると考えている。ただし、僧侶のように持戒によって淫乱を禁じることや老いて精が尽きてしまったことは本当の無漏ではない。小周天の功が完成すると、満ち足りた精を気に変わってしまい、精を排泄することはなくなる。そして真気が足りて生命力は動かなくなると、本当の無漏の真人なのである。


≪ 止火 ≫

小周天をうまい具合に三百回回せると、生殖器が畏縮して勃起しなくなる(馬陰藏相)。定に入ると、眉間に水銀のような一筋の白い光が現れ(陽光二現)、火が足りていることを示している。火が足りて丹が熟し、もし丹を傷つけるようなら火を加減し、すぐに火を止めなければならない。きっちり三百回回しても、陽光二現が現れないようなら、さらに続けて煉る(三百回の小周天のほかを「閏余」と言う)。もし小周天を三百六十回回してもまだ陽光が現れないようなら、定に入っても火を止めて待つようにする。三百六十回も回していないのに陽光が現れるようなら、陽光の現れることを基準にする。煉精化気の段階が完成すると火を止める合図となる状態が現れ、この時すでに三百回以上の元気(外薬)が下丹田に蓄えられている。止火の後、神を丹田に入れ、蓄えた薬と一つにして、内薬が生じることを促す。


第3段階「煉気化神(中関仙術)」

精を煉って気に変える小周天の丹功が完成すると、「入環」(仏教では坐関あるいは閉関という)という過渡の段階を経て、気を煉って神に変える大周天の丹法へと入っていく。小周天では精を漏らさないことを要求したが、大周天では気を漏らさないことを要求する。気は精よりさらに漏れやすいので、大周天では気が散じていま一息のところで失敗する危険を防ぐことを強調する。大周天の時には人体の精と気はすべてに変わってしまっているので、神と気の二つの成分が残っているだけである。もう河車のルートを循環させず、中丹田と下丹田の間だけで運転し、神と気を煉って神にまとめてしまう。これが、二が一に帰る中関仙術である。実際は、中関は煉薬を一歩進めたやり方である。神と気を凝結させ、有為から無為へ移行する。


≪ 採丹 ≫

大薬は丹母と呼ばれ、丹経の中では還丹のことを総称している。採丹は大薬を採ることである。七日間の修練が必要であるが、これは真陽が七日で回復するという意味である。またの名を入環ともいい、大周天に移行していく前段階である。

止火のあと、会陰から丹田に昇る気があって内薬が生じる。この内薬と外薬を凝結させると大薬ができる。 この時、静定中に眉間に電光のような光が突然現れ、部屋に白い光が立ち込める。これが陽光三現である。これは体内の真陽が完全に集まり、気根内に大薬が生じたことを示している。また大薬が生じる時には正子時[小周天から大周天へ移行する時期]に達したことを示す「六根震動」という状態も現れる。こうなったら、神を凝らして定に入り、日夜目で内視することによって中丹田に意識をかけなければならない。こうしてすこしずつ無為の修練に入っていく。各項の準備が整えば、秘訣のとおりに大薬を採り服食して大関を過ぎるようにする。

七日得薬図
七日得薬図


大薬を採る前には、「六根を漏らさない」ようにしておく。まず饅頭のような形の木座を準備し上を綿の布で覆う。これによって谷道[肛門]を支えて大薬を通す。また鼻でおこなっていた呼吸が内呼吸に変わるので、木で鼻孔をはさみ、内気が上下の鵲橋から外へ排泄する危険を防止する。

生じる時には大薬は非常に活発で、心臓の方へ勢いよく駆け上がったり、前へ行って陽関に触れたり、後ろへ行って尾閭に突き当たったたりする。心臓の方では気を保つことができないし、陽関は止火のあと閉じてしまっているので、大薬は後ろへ行くが、尾閭に阻まれて通れなければ、谷道から下の方へ逃げ去ってしまう。この時、谷道を外から木座でしっかり支え、内には「吸、舐、撮、閉」の四字訣で大薬が自然と動いて関に突き当たる機に乗じ、「五龍捧聖」の秘訣でもって微かな意念で大薬を軽く軽く引き上げ、羊が引く車のように尾閭を通過し、夾脊関に至る。大薬が夾脊関で阻まれて動かない時には無理に意念で引っ張ってはいけない。大薬がまた自然に動く時を待ち、微かに意念をかけて軽く引っ張り、鹿が引く車のように軽快に夾脊関を突き抜けて通り過ぎ、玉沈関まで昇っていく。大薬は玉沈関でまた阻まれて動かなくなるので、また五龍捧聖の法でもって牛が引く車のように大薬が自然と動いて大きな力で玉沈関を衝き開くのを待つ。玉沈関を過ぎると、直ぐに頭の脳の中を貫くので、再び引っ張って印堂まで下ろす。大薬は印堂で阻まれて通らなくなると、上鵲橋から容易に排泄される。この時木で鼻孔を挟んで閉じ、舌を上顎につけ、大薬を下に引っ張らなければならない。やがて大薬は十二重の楼(喉の下の気管)を過ぎ、中丹田を通って下丹田まで降りてくる。中関仙術では必ず鼎を黄庭に移し、中丹田と下丹田を合わせて一つの虚空の大境界にする。これは小鼎炉と呼ばれる。大薬を採って服食したあと大薬は黄庭の中に入れ、目の光を使って常に意識をかけ、神と一つにして煉る。この神と気が溶け合って一つに固まったものを聖胎という。

道胎図
道胎図


≪ 養胎 ≫

聖胎は嬰児とも呼ばれるが、実際に形や質を備えた物ではなく、神と気が凝結した物に対する比喩にすぎない。この段階では、まず神を気に入れ、それから神を気で包み、十カ月の間神が気と一つにして安定させる。これは、ちょうど神と気が交わり子宮に胎児を生み育てているようなので、養胎に例えられる。大周天は河車を回さず、ただ二気を黄庭と丹田の間に充満させるだけである。その火候は爻の表象で計らないが昼も夜も中断することなく、きちんと沐浴をするが卯と酉で換気することはない。常に落ち着き(意念は無きごとく)常に覚醒し(きちんとした行動をとる)、心や考えを洗い、綿密に静かに意識をかけ落ち着かせることで、元神は発育・成長していく。十カ月の間に、微かに動いていた気は動かなくなりすべて神に変わってしまう。真意の運用も目で見ることによって意識をかけていたのを意識しないようになり、火においても意が触れないようにし、元神の落ち着きに影響しないようにする。大周天の修練自体は、実際には入定功夫[落ち着かせる修練]である。

大周天の入定功夫の目的は陽神を煉ることであり、その丹法は抽鉛添汞[鉛を抽出し水銀を添加する]と呼ばれる。汞[水銀]は陽で、鉛は陰である。気が動き神が散ることが陰であり、気が落ち着いて神が純であることが陽である。だから気が落ち着くということは、陰が消え、陽が増えることである。二気が完全になると、もうろうとしたものはなくなり、虚霊[虚の働き]の陽神だけが残る。そして、純粋に陽に満ちた胎が完成する。1カ月目は二気はまだ活動していて昇ったり降りたりする。2カ月目には気は微かに動いている。3カ月目以降はは中丹田と下丹田だけで微かに動くだけである。4〜5カ月目にはもう動かなくなり、陰は減り陽が増えていく。6〜7カ月目には修練は安定して熟し、気は神に変化する。8〜10カ月後になると、長い間静かに意識をかけていたので、性功は完成し、神は完全になる。これ以降は方法を変えて胎を上丹田に移し、上関に入っていかなければならない。中関の養胎段階では丹功が進むに従って次のような効果が現れる。

(1) 辟穀現象
およそ3カ月が過ぎると、神と気は落ち着き、人体に元気が満ちあふれる。そして、飢餓感が消え、食事を取らなくなる。もともと食糧は後天に属する物なので食糧を食べることは陰である。だから体内の陰が消えると食べることを考えなくなる。辟穀現象が早く現れるか遅く現れるかは人によって異なる。これは定力[落ち着く能力]と関係している。辟穀が早く現れるということは定[落ち着くこと、安定すること]を得るのが早いということであり、そのあと定を出るのも早い。辟穀は定に入った効果であって、無理に求めるものではない。

(2) 昏睡することがなくなる
およそ6〜7カ月が過ぎ、定の修練に熟達すると、元神が胎の主となる。この時には意識がぼんやりすることがなくなり、睡眠をとる必要がなくなる。意識がぼんやりとしていることは陰に片寄ることであり、陽神が旺盛であると昏睡することがなくなる。

(3) 胎息脈住
養胎が8〜9カ月目になると、気はすべて神に変わり、脈[経絡]は止まり体で呼吸するようになる。この時、すべての経絡はあるのかないのかわからないほど和やかになり、口や鼻では呼吸しなくなる。これは母親の子宮の中にいた時と同じような状態である。

(4) 六通の験
養胎がうまくいって10カ月目になると、身体は純陽になり、神は非常に安定する。神が安定しているとさまざまな知恵や能力が生じ、六通の験が現れる。小周天の功法の時に達成する漏尽通は、再び童真の体に返ることである。天眼通は天地の間のすべての事物を見ることができる。天耳通は十方の話を聞くことができる。宿命通は世の中の出来事の因果を知ることができる。他心通は他人の考えを知ることができる。神境通はよく行ったり来たりして、秘密を見抜くことができる。六通は、実際には、修練していく過程で開発される人体の潜在能力がほとんどである。その中の千里眼、透視、超聴覚、予知、テレパシーの類は実験されすでに報道されている。しかし、内丹家の潜在能力に対する姿勢は現代の気功師とは違う。彼らはこうした潜在能力の顕現を煉丹の過程で必然的に現れる効果であると考え、喜んだり恐れたりしないで、ひたすら内丹を煉り完成することを最終目的として人体の実験を続ける。ただし神境通に対しては、このような識神の知力の開発が逆に元神を覆い隠してしまうことを危惧して、特に気をつけた。《仙佛合宗》には、「神境という通は識神が事を行うのである。もし心君を保ち支えることができなかったら、識神が転ずるところとなる。ただ聡明にして行い、識を転じて智と成さなければならず、そうして始めて胎が完全になるという結果を得るのである」と書かれてある。

そのほか、大周天の定に入ると多くの幻覚が現れる。丹家はこれを外景あるいは魔と呼んでいる。これには六欲魔・七情魔・富魔・貴魔・恩愛魔・災難魔・刀兵魔・聖賢魔・楽魔・色魔があるが、実際はすべて現実の社会の中で常に沸き起こる世俗的な想念である。内丹家は、定に入ったら、魔にかかわりあったり応じたりしないでそれを見みるようにし、すべて正念によって取り去る。10カ月目に陰が消えて陽だけになると、神は完全に安定し、呼吸は胎児と同じになり、経絡は静止し、魔も自然に消えてしまう。こうなれば、神を煉って虚に戻る上関仙術に進む。


第4段階「煉神還虚(上関仙術)」

内丹学では道は虚無であると考え、丹経の中では虚を〇で表す。宇宙の中では〇だけが壊れることなく存在し続ける。神が虚無に帰ると、三が二に帰り、二が一に帰り、一が〇に還るという過程が完了する。それは与道合真と呼ばれる。煉神還虚は丹功の最高の段階である。性功に専念して約9年かかる。最初の3年は陽神に乳を飲ませ、あとの6年には神を外へ出す。

≪ 出胎 ≫

煉気化神の功が完成すると、静かに意識をかけている神だけが残る。元神は長時間中丹田や下丹田に留まることができないので、まず方法を変えて神を上丹田(脳の中の泥丸宮。陽神の本宮である)に移さなければならない。これは移胎と呼ばれる。そのあと上丹田で陽神に静かに意識をかけ、虚霊[虚の働き]に溶け込ませて陽神を養う。これは乳哺と呼ばれる。これは陽神がまだ安定していないからである。幼い嬰児には乳を飲ませてやらなければならないのと同じである。乳哺の基本丹法は定に入るであり、定に入って神を煉るのである。神を煉ればますます洗練され、性を理解できるようになると言われている。定に入るのが長ければ長いほど、定の力は大きくなり、陽神は健全になり、神通も大きくなる。

陽神の乳哺を続け、六通が完全になると、性は虚無と一つになる。この時定に入っていると、突然目の前に雪や花の粉のようなものが飛ぶのが見え、天から花が降り注ぐ光景が現れる。脳門は自然と開くので、胎を外へ出す。脳門は天門とも言うが、もともと嬰児の時には開いていたものである。この時頭のてっぺんの骨のつなぎ目が嬰児のように開き、金色の光が四方に放たれ、香気が部屋に充満し、陽神は自然と泥丸から抜け出る。もし適切な時に胎を出さなかったら、長い間形にとらわれていた神は、解脱し虚霊に戻ることができず、落ち着きを失って頻繁に動き、危険な状態になる。道士の尸解や和尚の坐化は、元神が身体から抜け出し制御を失ったために病気でもないのに死んでしまった結果である。仮に尸解や坐化しなかったとしても、神は身体に制限され無知で愚かなままで、結局は「天地と寿を同じくする一愚夫」で終わってしまう。陽神は人間の精神の最高のエッセンスであり、虚を極め霊を極め形もなく質もない。

出胎図
出胎図


神を調え身体から出すと三年乳哺の功は完成し、続いて六年温養の功を行う。この時には修行者の身体の周囲2〜3尺ぐらいに金色の光が現れる。これは元神(法身)を温め養う乳液である。その方法は、まず法身を光の前に近づけ、それから念を集中して法身の内に光を取り入れる。その後、法身を身体の中に戻す。虚空が法身の抜け出す場所であり、泥丸が法身を守り養う場所である。陽神が出て行ったまま戻れなくなり本性を見失うことを防ぐために、出したら短時間ですぐに戻し、養うことを多くし出すことを少なくしなければならない。はじめのうちは少し出してすぐに戻し、遠くに出さず近くに出し、時間は短くするべきで長くしてはいけない。それから、遠くまで出して戻すようにする。徐々に遠くまで出すようにすると、陽神は次第に経験を積み、次第に出て行くことに熟練する。

移胎乳哺
移胎乳哺図


陽神が殻(身体)を出た後も幻覚が現れることがあるが、これに引かれて誘われると陽神は戻れなくなる。これはもともと煉己が不十分であったために、陰神が外であちこち動いて作り出したものである。こういう場合にはやむをえないので、煉虚という1段階を修練し、煉心の不足を補う。これはさらに定の修練によって神を煉るのである。神をどんどん煉ってさらに優れたものにし、道の境地へ入っていく。こうなったら、陽神を放つと地に達し天に通じ、千変万化し、山を移し海を超え、神通は広大になる。また、法身を分けて多くの分身をつくることもできる。これは身外有身と呼ばれる。

化身図
化身図


≪ 還虚 ≫

還虚合道は、内丹学の最後の修練である。これは、陽神を再び身体の中に戻して祖竅の中に入れ、それをどんどん煉っていくのである。神を煉って虚に戻し、さらに虚無に処するようにこれを煉る。陽神は煉れば煉るほど優れたものとなる。どんどん煉っていくと陽神の慧光の中に神火が現れて身体の百竅を貫通し、陽焔が天空に勢いよく上がり、頭のてっぺんも足も突き抜けていく。色身(身体)を煉って法身(陽神)の中に溶け込ませ、神光で全面的に照らす。最後には神火が全身に及び身体は崩れ散り、粉砕して有でも無でもなく、形も跡もない先天の祖気となり、〇に戻る。そして、虚に還り道と合するのである。この最後の一歩を「虚空粉砕」といい、これが完成すれば集まれば形を成し散ずれば気となる仙人の本質を理解できる。内丹家の言う、「帯肉大覚金仙」、「万劫不壊之躯」、「本来面目」、「形神倶妙、与道合真」、「性命双修」、「超神入化」といった言葉はすべて虚無に帰ることを意味する。

内丹の修練の全過程は道教哲学の宇宙生成論と内丹学の原理がよりどころになっている。神を煉り虚に戻るということは、神が神を煉ることではない。道法を修めているとか神仙を目指していると考えず、形も神も忘れ、無極に帰り、空無に還り、天地と一つになり、宇宙と体を同じくし、後天と先天が一つになった境地に到達することである。内丹学では、宇宙の自然の根源は道であり、道はすなわち虚無で、宇宙の中で唯一永遠に存在する〇であると考えられている。内丹学は人間と道が一つになることを追求するが、「長生成仙」という概念も実は虚無の概念の一つである。俗人は現実の社会の中で名声や利益や権力を求めるのと同じように内丹を煉ることを長生成仙の方法であると考えているようだが、これは道教の内丹学の理論とは全く正反対である。《唱道真言》には、「丹を煉ることは、何かをすることではない。何もしないことを煉丹と言うのである。人間は、何もしなければ、心が清まって無我の境地に入れるのに、どうして丹を煉る必要があるだろうか。丹というものは、煉る必要のないものが、煉るのによい丹である」と書かれている。また次のようにも説かれている。「そもそも無上の道は、もとは道ではなく、無上の丹は、もとは丹ではなく、形状に執着してこれを求めることは、道から遠く離れることである」。


白隠禅師「軟酥鴨卵の法」軟酥の法
神仙道チャーリー横山

軟酥鴨卵(なんそおうらん)の法」とは、白隠禅師白幽子という仙人から授かった法ですが、まさしくこれは仙道の天丹法で、初歩的な「静座」です。 白隠は禅の修行のやり過ぎで肺炎などを患い、医者からは見放されたのですが、なんとか病を克服しようと身体を引きずりながら京都の山奥に住む白幽子という仙人に逢いに行きました。 そしてその白幽子から「軟酥鴨卵の法」という瞑想法を教わり病を克服した様子が「夜船閑話」という書物の中で描かれています。

軟酥鴨卵の法」とは、どんな病気も治してしまうという乳製品などでできた卵型の仙人妙薬を頭の上に置いていると想像して、それが良い香りを醸しながら体中に溶け込んで身体のしこりや悪いものをすべて溶かしてしまう瞑想法なのですが、このような初歩的な「静座」で難病を克服できるのですから、仙道の天丹法を修練すれば素晴らしい身体の変化が起きても何ら不思議ではありません。その素晴らしい身体の変化の感覚、虚無ともいえる状態を、老子や葛洪は「恍たり惚たり」と表現しています。



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